レオーベンへの道 44:ユーデンブルクでの休戦交渉と6日間の停戦の合意
Road to Leoben 44
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
---|
フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
カール大公からナポレオンへの10日間の停戦の提案とナポレオンの返答
1797年4月7日、ベルガルド将軍とメルヴェルト将軍はボナパルトとの最初の会談を終えると次のようなメモを手渡した。
それは平和の確立を望む皇帝陛下の願いを宣言し、カール大公の名において10日間の停戦を提案する内容だった。
※このメモは恐らくカール大公がナポレオンに直接渡すよう指示したものであり、休戦交渉が物別れに終わったとしてもウィーンの防衛態勢を整えるための時間を確保したかったのだと考えられる。
これに応じてボナパルトは、休戦協定を締結する意志と和平を結ぶフランス政府の意向を確認した。
◎ナポレオンの返答
「ベルガルド将軍とメルヴェルト将軍両閣下へ
ユーデンブルクの本部より、共和暦V年ジェルミナル(芽月)18日(1797年4月7日)。
両軍の軍事的立場において、休戦はフランス軍の立場とまったく逆の方針です。
しかし、それが両国国民にとって切望され、有益な平和への道となるのであれば、私は貴公達の要望に大いに同意します。
フランス共和国は、この残酷な戦争に終止符を打ちたいという意向を陛下に度々表明してきました。
フランス政府は同じ気持ちを持ち続けており、光栄にも貴公達との会談の後、数日以内にフランス共和国と陛下の間に最終的に平和が回復するだろう考えており、私は何の疑いも持ち合わせていません。
どうか尊敬の気持ちと特別な配慮を信じてください。 ボナパルト」
ボナパルトとしてもこの休戦の提案はありがたいものだった。
カール大公軍にはあと数日でスポーク師団が合流すると考えられ、後方ではヴェネツィア共和国の民衆との対立が深まっていた。
ライン川から攻め上るはずのオッシュ将軍とモロー将軍からの良い連絡は無く、フランス政府はイタリア方面軍単独でオーストリア軍を撃破することを勧めていた。
ボナパルトはウィーンから約120㎞離れた場所に位置し、手元には3個師団しか有しておらず、ジュベール師団からもロンヴァルディアを指揮するキルメイン将軍からの連絡も未だ届いていなかった。
ベルナドット師団(少なくとも6,500人)はクラーゲンフルトを4月6日に出発し、ノイマルクトへ向かっている道中だった。
ノイマルクトからナポレオンの本部のあるユーデンブルクまで約40㎞であり、ベルナドット師団の合流まで後2日を要する計算となる。
一方、オーストリア軍側でも国を構成する各州の民衆は戦争の負担に疲弊し、新たに犠牲を払うことを拒否し、ウィーンでも不満分子が増加していた。
ナポレオンがアルコレ戦役時に行なったハンガリーでのプロパガンダの流布の効果かどうかは不明だが、ハンガリーでは暴動が発生しており、ハンガリーの司令部と長い間連絡が取れない状況だった。
そのため神聖ローマ皇帝フランツ2世は休戦を提案し、ボナパルトは前進を中断して休戦交渉を受け入れたのである。
ユーデンブルク本部での6日間の停戦の合意
◎両軍の停戦ライン
交渉が始まって数時間後の4月7日深夜、4月7日夜から4月13日夜までの6日間の停戦協定が締結された。
交渉中、マッセナはミトロフスキー将軍の後を追ってレオーベンからの撤退を要求してこれを獲得し、ミトロフスキーはニクラスドルフ(Niklasdorf)に後衛を配置し、その背後に支援部隊を配置したという出来事があった。
カール大公の10日間の停戦の提案は、下記の条件によって6日間に変更されて合意に至り、両軍の即時停戦が伝達された。
◎停戦協定の内容
「合意事項
ユーデンブルクの本部より、共和暦V年ジェルミナル(芽月)18日 (1797年4月7日)、真夜中。
イタリア駐留フランス軍総司令官ボナパルト将軍と帝国軍最高司令官チャールズ大公殿下は、これから行われる和平交渉の促進を望み、以下に同意する。
第1条 フランス軍と帝国軍の間で、4月7日の夜から4月13日の夜まで武器の使用が停止される。
第2条 フランス軍右翼の前哨基地はリエカとトリエステの間の現在の位置となり、(フランス軍は)以下を占領して前線を延ばす。
トレブニェ(Trebnje)、リティヤ(Litija)、ヴィンディッシュ・ファイストリッツ(Slovenska Bistricaのこと)、マリボル、エーレンハウゼン(Ehrenhausen)、ムール川右岸、グラーツ、ブルック、レオーベン、トローファイアッハ(Trofaiach)、マウターン(Mautern)、マウターンからロッテンマンへの道、ロッテンマン(Rottenmann)、イルドニング(Irdning)、エンス渓谷をたどってラートシュタット(Radstadt)へ、ザンクト・ミヒャエル(Sankt Michael)、シュピッタル(Spittal)、ドラヴァ渓谷、リーエンツ(Lienz)。
第3条 この停戦協定はチロルでも発効し、そこで両軍を指揮する将軍達は、占領するポストを自ら決定することになる。
この部分でフランス軍と帝国軍を指揮する将軍はともに会談を行い占領する地域を決定することになる。
チロルでの敵対行為は、両軍の司令官同士がこれを決定してから24時間以内に再開することはできず、いずれにしても、チロルで指揮を執る両軍の将軍が互いにこのことを報告してから24時間以内に再開することはできない。
1797年4月7日、ユーデンブルクにて締結。
メルヴェルト伯爵、少将。
ド・ベルガルド伯爵、皇帝陛下に仕える中将。
ボナパルト、フランス共和国陸軍総司令官。」
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