レオーベンへの道 18:カール大公によるイゾンツォ川からの撤退計画と反攻計画
Road to Leoben 18
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
カール大公による反攻計画とフィラハへの道
3月19日、「グラディスカの戦い」の直前、カール大公はフィラハとクラーゲンフルトの間で軍を編成し、準備が整い次第配置し、数的優位な立場でフランス軍を攻撃する計画を考えていた。
しかし、フィラハまでは冬のアルプスを通らなければならず、距離もあった。
そのため、どの道を通ってフィラハに到達するのかの検討が行われた。
◎ゴリツィアからケルンテン州及びシュタイアーマルク州への退路
当時、ゴリツィアからタルヴィジオを経由せずに後退できる軍用道路は大きく分けて3本あった。
1つ目はカナル(Kanal)、コバリド(Kobarid)、ボヴェツ(Bovec)、クランスカ・ゴーラ(Kranjska Gora)、リーガースドルフ(Riegersdorf)を経由しフィラハに至る道。
2つ目はリュブリャナを経由してクラーニ(Kranj)に行き、ローイブルタール(Loibltal)を通りクラーゲンフルトへ至る道。
この道にはクラーニからさらにサヴァ(Sava)川に沿って北上し、フィラハに至る道がある。
3つ目はリュブリャナに行きツェリエ(Celje)、マリボル(Maribor)を経由しシュタイアーマルク州南部(Untersteiermark)へ至る道である。
これらの道は当時、一年を通して気候の良い時期でさえ、大砲や輜重隊を移動させるのは容易では無かった。
カール大公はオクスカイ旅団が最重要地点であるタルヴィジオを確保していると強く仮定し、これら3つの軍用道路にタルヴィジオを経由する道を加えた4つの道を検討した。
オーストリア軍のイゾンツォ川からの撤退計画
当初、カール大公が主力の歩兵の大部分とともにプレディル湖を越えるルート(経路①の別ルート)でタルヴィジオへの行軍を行うことが提案されていた。
この行軍をフランス軍から隠すためにゼッケンドルフ将軍は残りの歩兵を率いてヴィパーヴァ(Vipava)に後退し、ホーエンツォレルン将軍は騎兵の大部分を率いてゼッケンドルフ旅団の後衛として追跡してくるフランス兵を振り返って攻撃し、その前進を遅らせるという計画だった。
しかしフランス軍はトッレ川の陣地から前進を開始し、ゼッケンドルフ旅団はセリュリエ師団に敗北してモンファルコーネへ後退してアウグスティネッツ旅団がグラディスカで包囲され、フランス軍がシヴィダーレを占領しているという報告が入った。
そのためコバリドを経由する退路は側面攻撃を受ける可能性があり、最悪の場合、フランス軍は既にコバリドに向かっており、主力がコバリドとトルミン(Tolmin)の間の高山に囲まれた狭い道に閉じ込められる可能性があった。
実際、後退路の検討中にフランス軍がさらにコバリドに向かっているという報告があった。
もしコバリドを失った場合、ジェモナ周辺にいるはずであるマッセナ師団とコバリドへ向かっているフランス軍がタルヴィジオで合流し、オクスカイ旅団とメルカンディン師団が危機に直面するだけでなく、フィラハでの合流も不可能となってしまう可能性が高い。
そのため、カール大公は急遽バヤリッヒ師団から4個大隊を分離してゴントルイユ将軍に指揮権を与えコバリドに向かわせた。
そして主力の後退は別の道が検討され、次の命令が各部隊に下った。
◎オーストリア軍のイゾンツォ川からの撤退計画
すでにオセック(Osek)に移動している輜重隊は、3月19日正午にヴィパーヴァに向けて出発し、リュブリャナとローイブル警告を経由してクラーゲンフルトにできるだけ早く移動する。
軍は夕方に出発し、ロイス将軍はサン・ジュリアン大佐に指揮権が引き継がれたゴントルイユ旅団とケルペン旅団とともにサルカーノ(Solkan)から峠を越えてヴィパーヴァへ向かう。
ゼッケンドルフ将軍はミトロフスキー旅団と5個騎兵中隊を率い、フランス軍がイゾンツォ川を渡ってモンファルコーネを占領し、ヴィパーヴァへの直進ルートが塞がれてしまった場合、ドゥイーノ(Duino)、オピチーナ(Opicina)、セノゼチェ(Senožeče)、ラズドルト(Razdrto)を経由して2日の行進を行い本体と合流する。
ホーエンツォレルン将軍はフランス軍の前進開始と同時に2列でイゾンツォ川へ後退して防衛する。
そして19日夜にイゾンツォ川の前哨基地を撤収し、歩兵を急いでチェルニッツァ(Črniče)に向かわせ、自身は騎兵を率いてケルペン旅団の後に続いてヴィパーヴァへ向かう。
バヤリッヒ将軍は翌20日午前に残りの部隊とともにゴントルイユ将軍の後を追うよう命じられた。
ゴントルイユ将軍はコバリドに到着した後、タルヴィジオに向かうことになっていた。
バヤリッヒ将軍はコバリド近くでコボロス旅団とシヴィダーレ方面に派遣していた前衛部隊と合流し、重砲予備小隊をコバリドに配置した後、タルヴィジオでゴントルイユ少将と合流しなければならなかった。
19日時点でコボロス旅団はすでにコバリドに到着しており、3個中隊をシヴィダーレに向かう途中にあるストゥピッツァ(Stupizza)に前衛として配置し、2個中隊をゴリツィア方面への道(Idrskoなど)に配置していた。
未だサン・マルティーノ(Šmartno)にいたフェダック中佐は、夕方頃、ゴリツィアへ後退するには間に合わないと考え、バヤリッヒ師団と合流するためにコバリドに向かった。
後方連絡線の収束とクロアチア王国とアドリア海沿岸の防衛方針の決定
カール大公は、本部をリュブリャナとクラーニを経由してフィラハに移すことを考えていた。
この撤退により、オーストリアのアドリア海沿岸とハプスブルク領クロアチア王国の防衛は自衛に任された。
◎カール大公からピットーニ将軍へのアドリア海沿岸防衛に関する命令
そのため、カール大公はトリエステの司令官であるピットーニ将軍に、「物資や弾薬を船に積んでリエカとカルロパゴ(Karlobag)に送り、軍病院を引き上げ、野砲をリュブリャナのゼッケンドルフ将軍に送り、最悪の場合、持ち出せなくなったものすべてを海に投げ捨てるか、さもなければ破壊する。フランス軍がトリエステに近づいたら、ダルムシュタット軍と数個のクロアチア人からなる小さな部隊を率いてリエカに向かって撤退し、トリエステとリエカの間の山脈をできるだけ長く保持し、フランス軍に警告を発し、これらのことをリュブリャナのゼッケンドルフ将軍に知らせる。リエカからの退却する必要がある場合、クロアチア1個大隊とともにカルロヴィッツ(Karlovac)に向けて退却しなければならない。 また、ポルトレ(Kraljevica)、カルロパゴ、セニ(Senj)の入植地を強化し、ポルトレからの道を封鎖し、山の住民に武装させるように。」と命じた。
さらに内オーストリアの総司令官は、撤退について知らされ、道にあるすべての障害を取り除き、倉庫、弾薬、病院、捕虜などを撤収することができるよう命じられた。
ゴリツィアとグラディスカにあった砲兵基地はグラーツ(Graz)に移された。
軍に食糧を供給するための様々な手配がなされ、マリボルとクラーゲンフルトでは倉庫に在庫を保管し、軍への食糧の供給を開始した。
クラーゲンフルトの司令官であるノイゲバウアー中将は、前進する増援部隊の行進の方向を可能な限り適切に導くよう指示され、チロルのケルペン中将、クロイツベルク(Kreuzberg)のスポーク将軍、コバリド近くのバヤリッヒとカール大公の本部との連絡や輸送を迅速に行うことができる体制を整えるよう命じられた。
このノイゲバウアー将軍への命令は、ロイス旅団とホーエンツォレルン旅団がリュブリャナ周辺へ移動し、クラーニ(Kranj)を経由してタルヴィジオに向かって集結しようとしている間、バヤリッヒ師団とメルカンディン将軍とカイム(Kaim)将軍の師団、スポーク旅団との合流点を早急に確保することを目的としていた。
タルヴィジオ~フィラハ周辺へ兵力を集中することにより、カール大公はウィーンとの連絡を迅速に行うことができ、リーエンツを経由してチロル軍とのスムーズな連絡が可能となる。
そのため、すべての分遣隊の将軍達はカール大公本体の撤退の動きについて知らされると、戦略的状況に有利な変化をもたらすのではないかという希望を抱いたと言われている。
オーストリア軍のイゾンツォ川からの撤退の開始とフランス軍による追跡
3月19日夜、カール大公はグラディスカの戦いでアウグスティネッツ旅団が降伏したことを知らされた。
そのため3月19日夜から3月20日未明にかけて、急いでイゾンツォ川周辺を撤収しリュブリャナへの後退を開始した。
ロイス将軍はヴィパーヴァへの道を、ゼッケンドルフ将軍はオピチーナ(Opicina)への道を、バヤリッヒ将軍はコバリドへの道を進み、ホーエンツォレルン旅団の歩兵はチェルニッツァ(Črniče)に向かって出発した。
ホーエンツォレルン将軍は20日夜明けまでイゾンツォ川右岸を騎兵隊で維持させて左岸に戻した。
そして20日午前10時、バーバッシー(Barbacsy)中佐率いる2個騎兵中隊を残して前日19日夜に出発した歩兵の後を追わせた。
バーバッシー中佐はできる限りの野戦病院と軍需物資を移動する任務を負い、実際、多くの野戦病院と軍需物資が救われた。
3月20日午後、ベルナドット師団が大砲を持ってゴリツィアの町へ前進すると、バーバッシーは撤収準備を行い、ホーエンツォレルン将軍の元に撤退した。
ベルナドット師団の前衛はバーバッシーを追って町を通り、チェルニッツァに向かった。
カール大公はフィラハで全軍を合流させるつもりであり、必要な手配を自分で行うために、クラーニに急いで向かうことを決心した。
そのためヴィパーヴァでロイス将軍に軍の最高指揮権を引き継ぎクラーニに急いだ。
カール大公本体の配置と強度
ホーエンツォレルン将軍、サン・ジュリアン大佐、ケルペン将軍、ゼッケンドルフ将軍の4つの旅団の全部隊を合計すると、193個大隊、13個騎兵中隊を有し、騎兵1,700騎を含む10,200人を数えた。
カール大公はホーエンツォレルン将軍とゼッケンドルフ将軍に命令を下した。
「ゼッケンドルフ旅団がホーエンツォレルン旅団と合流するとすぐに歩兵を敵と2日間の距離に保ち、全騎兵をホーエンツォレルン将軍指揮下に置く。これら(兵力)を反攻作戦にも使用するため、深刻な戦闘に巻き込まれないように気を付ける。行進は可能な限り加速され、リュブリャナとクラーニを経てタルヴィジオに向かい、マリボル(Maribor)への道は騎兵分遣隊によってのみ監視されるべきである。」
一方、コバリド方面では、ゴントルイユ、コボロス、グラッフェンの旅団とフェダック、パウムガルテン、ミーアの各分遣隊が合流し、バヤリッヒ将軍がそれらを率いた。
バヤリッヒ師団は10個大隊、34個騎兵中隊を有し、騎兵400騎を含む6,500人となった。
カール大公は、3月20日にすでに失われていたタルヴィジオでメルカンディン師団、オクスカイ旅団、ゼットウィッツ少佐のクロアチア2個大隊が合流し、リュブリャナを経由して移動しようとしているロイス将軍がタルヴィジオで合流するまで持ち堪えることを望んでいた。
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