レオーベンへの道 34:グルク渓谷からの後退とノイマルクト渓谷の戦い
Road to Leoben 34

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

ヴェネツィア共和国との協定の締結

 ボナパルトはヴェネツィア軍との直接対決を避けるためにヴェネツィアの中立を侵さないという体裁を保ち、ロンバルディア諸都市(ベルガモ、ブレシア、クレマ)の支配権を奪還しようと出動するヴェネツィア軍を妨害しないことに同意した。

 そして1797年4月1日に協定に署名し、その見返りとしてヴェネツィア共和国はオーストリア帝国に対する遠征資金としてボナパルトに月額100万リラを支払うことに同意した。

 この協定によりヴェネツィア政府は再び緊急法令により外国軍に対するいかなる敵対行為も禁止し、沈静化を図った。

 ベルガモとサローでの事件により反フランスの機運が高まりを見せており、まだ独立を宣言していない都市の中でヴェネツィア政府は特にパドヴァの学生の暴動を懸念してパドヴァとトレヴィーゾを重点的に監視した。

 しかし、この協定はフランス軍の利益に反したものであったため、フランスにとっては一時的な時間稼ぎだったと考えられる。

カール大公軍のグルク渓谷での防衛態勢

◎カール大公軍のグルク渓谷での防衛態勢

 1797年4月1日午前9時までにカール大公率いるオーストリア軍は再編成を行い、グルク渓谷での防衛準備ができていた。

 メルカンディン将軍は左翼を率いアルトホーフェン近くのミトロフスキー旅団とメルブリング(Mölbling)近くのシュビルツ旅団の合計4個大隊、3個中隊、6個騎兵中隊だった。

 ロイス将軍は中央を率いホーエンフェルト(Hohenfeld)の2個歩兵旅団、メルブリングのリンデナウ旅団、そしてラーベンシュタインのカイム中将指揮下のラターマン旅団、合計16個大隊、1/3個大隊、4個騎兵中隊だった。

 グンダースドルフ近郊のオクスカイ将軍は右翼、3個大隊、2/3個大隊、1個騎兵中隊を率いた。

 後衛を指揮しているブラディ将軍は、ホーエンフェルトとアルトホーフェンに通じるグルク川に続く2つの街道沿いに部隊を配置しており、フランス軍が接近してきたら2個騎兵中隊を2つの街道沿いに前哨部隊として残し、1個大隊と猟騎兵を左翼のアルトホーフェンに送り、1個大隊を中央のホーエンフェルトに送り、前哨部隊が後退する場合、アルトホーフェンに2個騎兵中隊をまとめるよう指示された。

 そしてメルカンディン将軍は左翼としてフェルカーマルクト(Völkermarkt)からヒュッテンベルク(Hüttenberg)までの道を、後衛のブラディ将軍はマイゼルディング(Meiselding)までの道を中央で、オクスカイ将軍は右翼としてフェルトキルヒェン(Feldkirchen)からシュトラスブルク(Straßburg)までの道を防衛することになっていた。

フランス軍の包囲機動とカール大公による撤退命令

 ボナパルトはクラーゲンフルトの本部からケルンテン州の住民に服従を求める宣言を行い、フランス軍が駐留しても被征服民(ケルンテン州の住民)に何の負担も加えないことを保証した。

◎マッセナ師団の包囲機動とカール大公による撤退命令

 正午に向かって、マッセナ師団は2つの縦隊でグルク川に向かって前進し、オーストリア軍の前哨基地の向かいに野営した。

 同時に分遣隊は左にシュトラスブルクとグルクに向かって移動し、右にゴルトシッツ(Görtschitz)川沿いにエーベルシュタイン(Eberstein)に向かって移動し、ホーエンフェルトの陣地を迂回するよう機動した。

 そしてギウ将軍にマッセナ師団と一定距離を開けて前進するよう命じ、シャボー将軍にはクラーゲンフルトへ向かうよう命じた。

 翌4月2日朝にフランス軍が攻撃してくるであろうこと、そしてその数的優位性を利用してオーストリア軍の両側面を包囲するであろうことは目に見えていた。

 カール大公は、フランス軍の包囲機動による差し迫った危険から数的劣勢な軍を即座に撤退させることを決断した。

 そのためノイマルクトへの撤退を2日の夜明け前に実行するよう命じた。

 メルカンディン中将は左翼を率いグッタリングとヒュッテンベルクを経由してジルバーベルクに向かう。

 その際、すべての橋を破壊してバリケードを設置し、このルートを遮断する。

 ロイス中将は中央、オクスカイ少将は右翼、ブラディ少将は後衛を率い、それぞれの旅団は段階的にフリーザッハを経由するルートで後退する。

オルサ渓谷での戦闘

 後退は4月2日の夜明け前に開始された。

 フリーザッハを過ぎると道は高い山々に囲まれたオルサ(Olsa)渓谷に入り、アイノード(Einöd)、ザンクト・マレイン(Sankt Marein)、ノイマルクト(Neumarkt)を通る3時間の道程だった。

 カール大公はフランス軍が姿を現す前にホーエンフェルトの主力縦隊がオルサ渓谷を通ってノイマルクトに到達できるようにするために退却を早めることを考えていた。

 というのはオーストリア軍が完全に退却する前にフランス軍が姿を現した場合、その攻撃により無秩序にノイマルクトに逃げ込まなければならない事態になる懸念があったからである。

 カール大公の懸念は的中し、ブラディ将軍が後衛を率いてホーエンフェルトに到着する間もなく、マッセナは師団の全軍を率いて急襲し、これら2個大隊、4個騎兵中隊をフリーザッハまで押し戻した。

◎ノイマルクト渓谷の戦い(オルサ渓谷での戦闘)

※ナポレオンはこの戦闘を「ノイマルクト渓谷の戦い」と政府に報告している。

 オーストリア軍が防衛する周囲は、クラーゲンフルトからウィーンへの道が通っているデュルンシュタイン(Dürnstein)のあるオルサ(Olsa)渓谷があり、その周囲は標高1,000m以上の山々に囲まれていた。

 フリーザッハではリンデナウ旅団が後衛を務めたが持ち堪えることができず、オルサ渓谷に入ったオラニエ旅団、カイム師団がアイノードに大砲を設置するまでブラディ旅団及びリンデナウ旅団はフリーザッハの後ろにあるグルデンドルフ(Guldendorf)とピヒリング(Pichling)まで後退してフランス軍に抵抗した。

 その後、リンデナウ旅団、ブラディ旅団の順で退却し、ブラディ将軍が渓谷の入り口に到達した時、マッセナは攻撃を強め、ブラディ旅団の2個大隊を混乱に陥れた。

 マッセナは第2軽半旅団に渓谷の両側に接する高地に登るよう命令し、第18半旅団と第32半旅団の歩兵に縦列を形成させた。

 カイム師団は即座に引き返し、ブラディ旅団とリンデナウ旅団を支援し、フランス軍の前進を食い止めた。

 しかしブラディ旅団、リンデナウ旅団ともにすでに弱体化していた。

 第18半旅団と第32半旅団は大砲の砲撃と歩兵の射撃をものともせず堂々と前進した。

 そのためカイム中将はグルデンドルフとピヒリングを撤収し、中央は分断するに任せてフランス軽歩兵による側面攻撃を阻止するために側面の高地に大隊を派遣した。

 オラニエ旅団はアイノードでマッセナ師団の主力縦隊の前進を阻止しようと塹壕を張り巡らせて待ち構えていた。

 しかし、マッセナ師団の前進を阻止出来ず、オークテン(Aucten)、バッド-オークテン(Bad-Aucten)の塹壕陣地を失い、ナイデック(Neideck)まで後退し、オラニエ旅団の両側面で支援するはずのカイム師団はさらなる後退を余儀なくされていた。

 マッセナ師団はカイム師団の後退により利用可能となった第2軽半旅団でナイデックのオラニエ旅団への側面攻撃を行い、正面ではナイデックのバリケードに近づいてそれらを撤去した。

 オラニエ旅団はノイマルクトを通ってペルヒャウ(Perchau)への後退を余儀なくされた。

 カール大公は予備の歩兵隊を派遣し、夜明けまで戦うことによって軍のウンツマルクト(Unzmarkt)への退却を保護させた。

 この戦闘における双方の損害は正確には不明だが、フランス側の資料によるとオーストリア軍の損害は死傷者及び捕虜の合計700人~800人と推定している。

 左翼メルカンディン師団はグッタリング(Guttaring)を経由して山中を抜け、右翼オクスカイ旅団は主力縦隊の側面をカバーする位置についた。

 両翼ともフランス軍から軽く攻撃を受けただけで、そのままウンツマルクトまで撤退し、そこで主力部隊に合流した。

 その後、単独で戦ったマッセナ師団は戦場で野営し、参戦できなかったギウ師団は少し離れた位置で野営した。

 そしてこの日の夜、ボナパルトはフリーザッハに本部を移し、シャボー将軍に翌3日午前4時に師団とともにクラーゲンフルトからフリーザッハに向かうよう命じた。