レオーベンへの道 39:ウンツマルクトでの戦闘
Road to Leoben 39
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
マッセナ師団による追撃
◎マッセナ師団によるノイマルクトの占領とオーストリア軍後衛への追撃
1797年4月3日朝、マッセナ師団はノイマルクトを占領した。
2日に占領したフリーザッハと3日に占領したノイマルクトでは、オーストリア軍が放火できなかったかなりの食糧が保管されている貯蔵庫が発見された。
ギウ師団はノイマルクトへ向かっており、シャボー師団はフリーザッハへ向かっていた。
マッセナ師団はそのまま前進を続けてノイマルクトの町を通過し、シャイフリング(Scheifling)へ向かい、第18半旅団と小さな部隊はそこでウンツマルクトへ向かうために前衛を形成した。
午後、マッセナ師団はさらに前進し、オーストリア軍後衛であるブラディ旅団の後部に食らいついた。
この時オーストリア軍の縦隊はウンツマルクトで結集したばかりだった。
側面及び後方の警戒とスポーク師団各個撃破計画
ボナパルトの元には、3月31日にザクセンブルク(Sachsenburg)近郊でオーストリア軍3,000人の縦隊に遭遇し、同じ勢力の2つ目の部隊がノイマルクトから西に約60㎞、ムラウから約40㎞の地点に位置するザンクト・マルガレーテン(Sankt Margarethen)で野営していたとの報告が届いていた。
これらの部隊は報告した者の推測によるとチロル軍の一部(実際はスポーク師団)であり、ジュベール師団に追われインスブルックからザルツブルクへ向かっているとのことだった。
そのためボナパルトはギウ師団の前衛を指揮するボン将軍にノイマルクトからムール川のほとりにあるムラウ(Murau)へ向かうよう命じた。
もしスポーク師団がカール大公と合流するためにムール渓谷を通過する場合、側面、もしくは後方を攻撃されないよう警戒し、内線の利によって各個撃破できるようにすることを目的としていた。
そして同時に、マッセナ師団への食糧供給を止めないよう、略奪を起こさないよう厳重に注意するよう命じた。
前線の兵力に不安がある中で民衆が放棄して連絡線を遮断された場合、ナポレオンは敵中に孤立してしまう可能性があった。
そのため民衆蜂起の大きなきっかけとなる略奪を起こさないよう注意を払ったのである。
ウンツマルクトでの戦闘
ユーデンブルク(Judenburg)に本部を移し後退を継続していたカール大公は、すぐ近くまで接近しているはずである援軍と合流するまでフランス軍主力との深刻な戦闘を回避し続けるよう注意を払っていた。
カール大公は3月下旬にフィラハからシュピタルを経由してエンス渓谷に派遣した哨戒部隊を回収するためにユーデンブルクからザンクト・ヨハンを経由してエンス渓谷に偵察部隊を派遣した。
そして4月3日午後4時頃、カール大公は各部隊に後退計画を示した。
ロイス将軍はムール川左岸を辿ってザンクト・ゲオルゲン(Sankt Georgen)に行き、シュトレットヴェーク(Strettweg)近くの野営地に行進する。
カイム将軍はムール側右岸を辿ってユーデンブルクの本部へ向かう。
メルカンディン将軍はミトロフスキー旅団とオクスカイ旅団を率いザンクト・ゲオルゲンに向けて出発する。
ブラディ少将は後衛とともに後退支援を行う。
しかし命令が下された時、すでにブラディ旅団はウンツマルクト近郊でフランス軍に強く圧迫されていた。
オクスカイ将軍は、すでに後部の高地にまで進出してきたフランス軍縦隊に抵抗し、メルカンディン師団はムール川にかかる橋を師団の一部で防衛させ、ミトロフスキー旅団をザンクト・ゲオルゲンに配置した。
ウンツマルクトで強い抵抗を示したブラディ旅団だったが、この町からの後退を余儀なくされた。
マッセナ師団前衛はウンツマルクトを占領し、ブラディ旅団の食糧を発見した。
そしてさらにブラディ旅団を追撃した。
◎ウンツマルクトでの戦闘
ブラディ旅団はマッセナ師団に対抗し、後ろにはメルカンディン将軍がオクスカイ旅団、ミトロフスキー旅団とともにザンクト・ゲオルゲン、エドリング、ヴェル(Wöll)の前で防衛態勢を整えていた。
しかし、1時間の戦闘の後、ブラディ旅団は砲兵大隊長カレール(Carrère)の砲撃によって2つに分断され、2方向に後退した。
1つは州境の山に向かい、1つはザンクト・ゲオルゲン(Sankt Georgen)への道を辿った。
そして西の山々を援護しようとしたオーストリア軍の散兵の多くが分断された。
ウンツマルクトにおける戦闘でのオーストリア軍の損害は死者300人、捕虜600人だったと言われている。
ヴィクトール師団の緊急呼び戻し
4月3日時点でヴィクトール師団の主要部分はボローニャのあるロマーニャ州にいた。
ボナパルトはヴィクトール将軍に、チスパダーナ軍を残し、自師団とロンバルド軍、ポーランド軍の全軍を連れて緊急でトレヴィーゾへ向かうよう命じる書簡をフリーザッハ(Friesach)の本部から送った。
この時、ヴェネツィア軍がベルガモとブレシアの反乱を鎮圧しようと出動しており、ベルガモ共和国軍及びブレシア共和国軍とヴェネツィア軍との衝突が間近に迫っていた。
そしてベルガモで民衆の反乱が勃発しており、他の都市にも反乱が飛び火することが予想された(この時点でナポレオンはブレシアがサローの民衆によって占領されたことは知らない)。
今後、もし北イタリア全土で民衆の反乱が同時多発的に起きたとしたら、フランス軍の後方連絡線が広範囲で脅かされ、クラーゲンフルトから北に40㎞ほどのところに位置するフリーザッハまで進出している軍やブレッサノネまで進出しているジュベール師団が危険に晒されてしまうことになる。
その緊急的な対応として教皇領に睨みを効かせていたヴィクトール師団を呼び戻したのである。
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