レオーベンへの道 15:カール大公によるイゾンツォ川での防衛計画
Road to Leoben 15
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
イゾンツォ川の背後への後退の決断
カール大公は数的優位なフランス軍とまだ決戦を行う考えは無かった。
そのため増援の来訪を待ち、できるだけ早くオーストリア軍が数的優位な立場となることを望んだ。
カール大公は2列で川幅が広く、深さがあり、流れの速いイゾンツォ川の背後へ後退を続け防衛線を構築することを決断した。
◎オーストリア軍のパルマノヴァ要塞周辺からイゾンツォ川方面への後退
3月17日、ロイス師団(21個大隊)がノガレード(Nogaredo)経由で州境の守備隊に向かって進軍した。
ゴントルイユ旅団はマリアーノ、コロナ、メデアに向かい、ケルペン旅団はフラッタ(Fratta)とヴェルサ(Versa)に向かっていた。
どちらの旅団からもパルマノヴァ近くの後衛を支援するために2個大隊が配備され、1個大隊はすべての物資が取り除かれるまでパルマノヴァ要塞に留まった。
そして、アウグスティネッツ旅団はグラディスカへ向かった。
ゼッケンドルフ将軍はミトロフスキー旅団 (6個大隊) とともに、ヴィッレッセ(Villesse)とロマンス(Romans)の間のグラディスカ(Gradisca)の西にある狭い区画に移動した。
バヤリッヒ将軍とグラッフェン旅団とコボロス旅団の一部 (6個大隊、1個騎兵中隊) はコルモンス(Cormons)近くの野営地の右側にあり、トッレ(Torre)川をシヴィダーレ(Cividale)へ繋がる道まで監視する任務が与えられた。
コボロス将軍と1個大隊はノティゾーネ(Natisone)川とイゾンツォ(Isonzo)川の山の中にある最接近点であるコバリド(Kobarid)に向かった。
ホーエンツォレルン将軍は後衛としてパルマノヴァに留まりつつトッレ川に防衛線を構築し、本部はグラディスカ近くのファッラ(Farra)に移動した。
フランス軍はこれらの行進を妨害せず、多くの帝国軍がトッレ川を越えて後退する一方で、フランス軍はこれらの後退を妨害せずに距離を保って追跡し、いくつかの地点でコルモール(Cormor)川を渡った。
イゾンツォ川の背後での防衛計画とメルカンディン将軍への命令
カール大公はイゾンツォ川を渡り防衛線を構築するために各師団や旅団に翌18日の行軍計画を示した。
◎カール大公によるイゾンツォ川での防衛計画
ゴントルイユ旅団はゴリツィアの橋を渡り、右翼としてサルカーノ(Solkan)、ラヴニッツァ(Ravnica)、クロムベルク(Kromberk)の州境に移動する。
ケルペン将軍は中央に移動し、グラディスカの近くに新しく建設された架台橋を渡って、サンタンドレーア(Sant Andrea)の荒野にある野営地に移動する。
アウグスティネッツ大佐は占領のためにグラディスカに4個大隊とともに留まる。
ゼッケンドルフ少将は、ミトロフスキー旅団とともにロマンスとヴィッレッセから舟に乗り、左翼としてカッセリアーノ(Cassegliano)近くの野営地に移動する。
コルモンス近くのバヤリッヒ中将は、はじめにゴントルイユ旅団の後退を支援し、その後、サン・ロレンツォまで同じ道をたどり、ホーエンツォレルン将軍が後衛とともに新しい警戒線(トッレ川)に移動するまで待つ。
そしてゴリツィアの橋を渡りゴントルイユ旅団の大砲の列の右側を確保し、イソンツォ川の上流の谷を観察し、カナレの道を覆う。
これらは18日の夕方に開始される予定だった。
後衛のホーエンツォレルン将軍は、パルマノヴァとトッレ川でフランス軍の前進を遅延させ、ヴェルサ(Versa)の背後にあるグラディスカとコルモンスの背後にあるサン・マルティーノ(Šmartno)との間の前哨基地を維持し、コルモンスとノガレード(Nogaredo)へ繋がる両方の道を覆う。
そして当分の間、カッセリアーノのゼッケンドルフ将軍に4個騎兵中隊隊を派遣する。
フランス軍がホーエンツォレルン旅団を攻撃した場合、残りの部隊の一部をサン・マルティーノに、一部をグラディスカに撤退させ、ゴントルイユ旅団とミトロフスキー旅団の前に前哨基地を形成する必要があった。
プステリア渓谷と上カリンシアを経由してフリウーリ軍に加わるための行進をしているメルカンディン中将は、17日中までに、師団とともにフィラハの北西に位置するザクセンブルク(Sachsenburg)またはシュピタール(Spital)にすでに到着していた可能性があった。
そのため、カール大公は17日に次の命令を持たせメルカンディンに使者を送った。
「オクスカイ将軍を支援し、フラツィオーネ・ストゥデナ(Frazione Studena)をカバーするために、あなた自身がハンガリー4個歩兵大隊と予備の砲弾を持ってポンタフェル(ポンテッバのこと)に移動する必要がある。ドイツ4個歩兵大隊をフィラハの近くに整列させ、最後尾のソマリヴァ旅団もフィラハに急行させなければならない。」
マッセナ将軍の動きとジェモナ周辺地域で起こりうる出来事の情報を入手するために、騎兵隊長ミエル(Mier)がパルマノヴァからトリチェージモ(Tricesimo)経由でその地域に進出した。
ジュベール師団による威力偵察
3月17日、ジュベール将軍の元に遂にアヴィーシオ川を渡る命令が届けられた。
この時点で、ジュベール将軍は、自師団の他、デルマス師団、バラグアイ・ディリエール師団を指揮し、騎兵1,800騎を含む18,500人を有していた。
ジュベール師団の主力はトレントに集結し、その前哨線はアヴィーシオ川左岸に位置するソヴェール(Sover)近郊から始まり、ロナ(Lona)、アルビアーノ(Albiano)、ラヴィース、テルラーゴ(Terlago)、サルカ渓谷まで続いていた。
バランド(Balland)将軍が指揮する6,000人の予備軍は、ヴェローナ、ペスキエーラ、および近隣地域の治安維持と防衛を担当していた。
しかし、これらの予備軍の数は、ピエモンテとロンバルディアを経由してフランスからの増援が到着するにつれて、毎日変化した。
そして正午頃、フランス軍の列がアディジェ川の両岸を前進し、中央のファーイと右翼のモルヴェーノに接近した。
ジュベールには2つの目的があった。それは、偵察するのと同時にオーストリア軍の真意を探ることだった。
そのため、前進は本格的ではなく、フランス軍は小さな戦闘の後、元の位置に戻り、その間ラウドン将軍はモルヴェーノの地点を支援するためにアンダロ(Andalo)にいた後方の部隊を前進させた。
その間、ヴィアル将軍は地形やオーストリア軍の警備状況をよく観察した。
その後、トレントの近くに約4,000人を監視のためにセルヴィエズ少将を残し、ジュベールは3個師団をアヴィーシオ川に移動するよう命じた。
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