レオーベンへの道 45:ジュベール師団のブレッサノネの放棄とリーエンツへの到着
Road to Leoben 45
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ジュベール師団のブレッサノネの放棄
ボルッツァーノのラウドン将軍は、旅団の一部を分離してブロダノヴィッチ大佐に率いさせ、ブレッサノネに向かうよう命じた。
1797年4月5日、ブロダノヴィッチ旅団はドイツ歩兵400人、国境ライフル兵200人、そして志願したチロル州兵で構成され、クロベンシュタイン(Klobenstein)とヴェルサーンズ(Vellthurns)を経由するルートでブレッサノネに向かった。
この行軍中、ラウドン将軍は前衛からジュベール師団主力がコルマ、キウーサ、そしてブレッサノネをも放棄したという報告を受けた。
ジュベール将軍はラティッシェン(Latitschen)とノイシュティフト(Neustift)近くのエイサック川に架かる橋を焼き落とし、リオに移動しようとしているとのことだった。
◎ラウドン旅団のブレッサノネへの進軍とジュベール師団による放棄
4月6日朝、ラウドン旅団前衛はボルッツァーノを占領して以降、何の抵抗も無くブレッサノネに進軍した。
ブレッサノネに到着すると病院に300人のフランス兵患者、そして元々オーストリア軍のものとみられる大砲5門と多くの倉庫が発見された。
オーストリアの将軍達は、ジュベール将軍がボナパルトの命令に従ってチロルを撤収し、ジュベール師団主力はケルンテン方面へ、セルヴィエズ旅団はトレント方面へ向かっただけであることを知らず、自分たちの攻撃によってジュベール師団を後退させたと考えていた。
6日朝、ケルペン中将はジュベール師団主力のミットヴァルドからの撤退を知らされ、その直後にラウドン旅団がボルッツァーノを占領したことの報告を受けた。
そのためラウドン将軍にボルッツァーノを経由してヴェルシュ・チロル(Wölsch Tirol)に進軍して占領するよう指示した。
※ヴェルシュ・チロルとは現在のトレンティーノ(トレント自治州)のこと。
ケルペン中将も師団とともにヴィピテーノを離れ、オーバーアウエへ進軍した。
デゲルマン大佐は前衛とともにリオを経由してヴァンドーイエス(Vandoies)に向かった。
そしてヴァンドーイエスでジュベール師団の後衛に忍び寄り、何人かを捕虜にした。
ジュベール師団のリーエンツへの到着とケルペン師団による追跡
◎ジュベール師団のリーエンツへの到着とそれを追うケルペン師団の軌跡
4月7日、ケルペン将軍は破壊された橋を再建しなければジュベール師団主力を追うことはできなかった。
橋を再建するためにその行軍は数時間遅れた。
一方、前衛のクロアチア1個大隊は騎兵隊を支援するためにブルニコ(Brunico)に派遣された。
この部隊はキエーネス(Chienes)ではるかに数的優位にあるフランス騎兵隊に追いたが、軽率にも攻撃を行い、ある程度の損害を被った。
そしてこの日、遂にケルペン中将がリオに進出した。
4月8日、ケルペン師団前衛部隊はプステリア渓谷のヴィッラバッサ(Villabassa)に到着し、本体はブルニコに到着した。
プステリア渓谷の州兵はリーエンツ(Lienz)から南西約5㎞のところにあるリエンツァー砦(Lienzer Klause)を占領してジュベール師団本体の行進を阻止しようとした。
しかし、少しの努力で道は開かれ、州兵は吹き飛ばされ、この日ジュベールはリーエンツに到着した。
ジュベール将軍は、これ以上フランス軍に敵対しないようリーエンツの住民を人質に取ってケルンテン州に連行した。
ケルペン中将は本体とともにヴィッラバッサまで進み、そこでヴェネツィア共和国で民衆反乱が起きてフランス守備隊が深刻な攻撃を受けているという噂を聞いた。
そのためカール大公からの命令を待ち、噂の真偽の確認のためにラウドン将軍からの新たな報告を待つことにした。
そして、もしそのような民衆反乱が実際に起きたとするならば、可能な限り反乱を支援するつもりだった。
そこで補給官参謀を直ちにピアーヴェ川上流のベッルーノ(Belluno)とフェルトレ(Feltre)に派遣し、ヴェネツィア地域の情勢について詳細な調査を行い、そこで放棄した民衆との連絡を確立し、好機があればピアーヴェ川下流域のフランス軍の後方連絡線を脅かすために民衆を利用することを計画した。
そしてオーストリア正規兵の一部もその地域に派遣された。
ヴェネツィアの反乱を起こした民衆を迎え入れて支援するために、1個歩兵中隊とチロル州兵の4個中隊がコルティナに配置され、いくつかの方向からヴェネツィア共和国領に向かった。
4月9日、プステリア渓谷ではケルペン師団前衛がジリアン(Sillian)に向かって前進し、その他の軽歩兵の分遣隊はゲイル川のティリアッハ(Tilliach an der Gail)、フィッシュライン川のセスト(Sesto am Fischlein-Bache)、クロイツベルク(Kreuzberg)を占領した。
ラウドン旅団の急進
4月7日、ラウドン将軍はブレッサノネからボルッツァーノに戻り、参謀竜騎兵と軽歩兵の分遣隊を率いてセルヴィエズ将軍の追跡をナイペルク大尉に命じた。
セルヴィエズ将軍は撤退の速度を早め、サロルノに大砲、数台の装甲車両、そして多くの敗残兵を残した。
ついにラヴィースでセルヴィエズは部隊を集結させ、アヴィーシオ川の背後で抵抗する準備を開始した。
4月8日、ラウドンは前衛を700人に増員し、さらに大砲4門を与えた。
そしてナイペルグ大尉に次の夜に進軍するよう命じた。
ラウドン将軍はナイペルグ大尉率いる前衛の支援のために、アナッカー(Anacker)大尉をスポル(Spor)とテルラーゴ(Terlago)を経由して300人の兵士とともにトレントに向かって前進させ、セルヴィエス旅団の後方を脅かすよう指示した。
ナイペルグ大尉は非常に強力な攻撃でラヴィースを攻撃したため、セルヴィエズ旅団は約70人を失いトレントに向かって急いで撤退した。
竜騎兵隊は執拗に追跡し、トレントの街の中のフランス軍に激しい攻撃を加えた。
フランス軍は大砲2門と300人の兵士を失い、敗走して行った。
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