レオーベンへの道 23:ジュベール師団によるボルッツァーノの占領
Road to Leoben 23
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
---|
フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ラウドン旅団の退却行
◎取り残されつつあるラウドン旅団の退却行
ラウドン将軍は3月21日夜から22日未明、旅団の各部隊に撤退を命じた。
まずマーレからメラノを経由してフィンシュターミュンツ峠(Finstermünzpass)に1個大隊を送り、もう1個大隊をスポルミノーレ(Sporminore)から最短ルートでボルッツァーノに送り塹壕を確保させた。
ラウドン自身は22日午前3時にスポルマッジョーレを出発し、メッツォコロナに向かった。
ケルペン師団本体はオーラを離れ、ボルッツァーノに後退した。
後退する際、アディジェ川に架かるノイマルクトの橋は、フランス軍が前進して橋を渡り、右翼と中央の後退を脅かす可能性があるため、破壊されることとなっていた。
ラウドンがメッツォコロナに到着しデゲルマン中佐の部隊と合流した時、ケルペン本体はすでにボルッツァーノへの後退を開始しており、ファーイとザンバーナに駐屯していたデゲルマン中佐の前衛部隊はすでに撤退しようとしていた。
これはラウドン旅団の後退を危険なものとしたため、後退速度を上げることを余儀なくされた。
そのため、ラウドンは4門の野砲と2門の山砲のみを保持し、砲兵隊の大部分をデンノに戻してメラノに向かわせた。
そしてデゲルマン中佐にテルメーノ(Termeno)の近くを経由するよう命じ、ペハーニック(Peharnik)大尉に部隊を与え後衛とした。
テルメーノでの戦闘
◎テルメーノでの戦闘
◎1774年のノイマルクト周辺地図
フランス軍がノイマルクトに到着した時、取り壊されているはずのノイマルクトの橋は取り壊されておらずバリケードが張られただけであり、フランス軍の前進を止めるには不十分なものだった。
ジュベールはノイマルクトを越えてボルッツァーノに向かい、ベリヤード将軍はそれほど苦労せずにバリケードを一掃し、第85竜騎兵隊と第5竜騎兵隊とともにノイマルクトに残り、第46竜騎兵隊を補強して橋を守った。
ラウドン将軍がノイマルクトの対岸に到着したとき、フランスの散兵が右岸に散らばっており、第85竜騎兵隊はこの橋でアディジェ川を渡ろうとしていた。
ラウドンはすぐに3ポンド砲2門と榴弾砲2門を持ち出し、1個歩兵大隊と砲兵隊にテルメーノの丘の上にあるぶどう畑を占領させた。
そして橋に対して砲撃を行い、攻撃のために竜騎兵を出撃させ、フランスの軽歩兵部隊を追い返した。
その後、ラウドン将軍はカルダーロ湖の高台に左翼を、テルメーノに右翼を配置して防衛態勢を整え後衛を待った。
しかし、フランス軍はラウドン旅団左翼を覆っている尾根の後ろに進軍しカルダーロへの退路を脅かしたため、後衛の到着を待つことができず、テルメーノとカルダーロ湖の高台を急いで離れることを余儀なくされた。
そして無事にカルダーロに到達したことにより分断されず旅団を保持することができた。
その間、橋に向けられて設置されていた榴弾砲1門と弾薬は、酷使された荷車ではこれ以上運ぶことができず、フランス軍の手に落ちた。
デュマ将軍は騎兵隊を退却中の縦隊の右側面に導き、最後尾の分遣隊を捕捉した。
そしてギルラン(Girlan)に到着すると、急いでラウドン旅団全体を包囲するために急進した。
ベリヤード将軍はラウドンに降伏を呼び掛けた。
しかし、ラウドンは降伏勧告を無視して残りの3門の野砲と騎兵隊をボルッツァーノに送り、何の妨害もなく歩兵の主要部分とともにボルッツァーノに到着した。
ラウドン旅団の後衛はクルタチ(Cortaccia)で包囲されており、一部は山に逃亡し、残りは山砲2門とともに捕虜となった。
ラウドン旅団の死者と行方不明者の数は、士官6人、兵士650人に達したと言われている。
ジュベール師団によるボルッツァーノの占領
◎ケルペン師団とラウドン旅団のさらなる後退
ラウドン将軍がボルッツァーノに到着したとき、ケルペン中将は、アディジェ川左岸側で他のフランス軍の列に圧迫されていたため、すでに軍の主要部分とともにボルッツァーノから撤退しており、キウーサ(Chiusa)へ撤退を続けていた。
そしてケルペン中将は、「あなたはメラノに行進し、可能な限りその地域をカバーするように。あなたの将来の行動は、さらなる撤退が必要になった場合、またはその他の予測不可能な出来事が発生した場合、あなたの旅団の強度と変化する状況に応じて、あなた自身の判断に委ねられる必要があります。」という内容の書簡をラウドン将軍に送り、旅団の指揮権を手放した。
22日夜、ラウドン将軍はデゲルマン中佐を騎兵とともにケルペン将軍の元に向かわせ、自旅団とデゲルマン中佐が率いていた部隊を連れてテルラーノに向った。
そしてケルペン中将率いる中央の部隊はコルマ(Colma)に後衛を配置してキウーサに後退した。
このようにオーストリア軍がボルッツァーノを放棄すると、翌23日朝、フランス軍の略奪を恐れてボルッツァーノの議員がジュベール師団本部に来訪してオーストリア軍が夜中に町から退却して行ったことを知らせ、勝利者の寛大さを称賛した。
ジュベール師団から見たエイサック渓谷周辺地形
その後、ジュベール将軍はボルッツァーノに到着すると、コルマに対して前哨部隊を配置した。
しかし、ブレッサノネの位置は局所的に防御に適していた。
チロル軍の右側はエイサック(Eisack)川と森で覆われた高い山々に接しており、主な入り口はバリケードで塞がれていた。
軍道には縦方向に並べられた大砲が向けられていた。
チロル軍の左側は深いエイサック渓谷に覆われており、途中にあるキウーサではその上をラディチャー橋(Laditscher Brücke)と呼ばれる屋根付きの橋が通っていた。
しかし、左側はその地域の山が信頼できる軽歩兵部隊によってしっかりと守られていなければ、容易に迂回することができた。
そのため、より安全に進軍するためにはそれらの山々を占領する必要があった。
キウーサの狭い峠では、エイサック川と高い岩山によって道が非常に狭くなるため、少数の軍隊で簡単に防御できる。
そのため、チロル軍前衛は適切な地点を選んで配置することができた。
- TOP
- Leoben 00
- Leoben 01
- Leoben 02
- Leoben 03
- Leoben 04
- Leoben 05
- Leoben 06
- Leoben 07
- Leoben 08
- Leoben 09
- Leoben 10
- Leoben 11
- Leoben 12
- Leoben 13
- Valvasone
- Leoben 15
- Leoben 16
- Gradisca
- Leoben 18
- Leoben 19
- Leoben 20
- Leoben 21
- Leoben 22
- Leoben23
- Leoben 24
- Tarvis
- Leoben 26
- Leoben 27
- Leoben 28
- Leoben 29
- Leoben 30
- Leoben 31
- Leoben 32
- Leoben 33
- Leoben 34
- Leoben 35
- Leoben 36
- Leoben 37
- Leoben 38
- Leoben 39
- Leoben 40
- Leoben 41
- Leoben 42
- Leoben 43
- Leoben 44
- Leoben 45
- Leoben 46
- Leoben 47
- Leoben 48
- Leoben 49
- Leoben 50
- Leoben 51
- Leoben 52