レオーベンへの道 38:ナポレオンとカール大公による本体への集結命令
Road to Leoben 38
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ゼッケンドルフ将軍へのレオーベン方面への移動命令
1797年4月2日夜~3日未明にかけて、カール大公はウンツマルクトへの後退を続け、ゼッケンドルフ将軍に書簡を送った。
その書簡には、「本体はグルク渓谷から撤退したこと」、「ゼッケンドルフ将軍は強行軍でグラーツ(Graz)を経由してブルック・アン・デア・ムール(Bruck an der Mur)へ急ぐこと」が書かれていた。
同時にグラーツの司令官であるコロレド伯爵に、ゼッケンドルフ将軍がグラーツを通過した後、町を離れるよう命じた。
数日前までゼッケンドルフ将軍はベルナドット師団を引き付けるためにグラーツ方面ではなくクロアチア方面やハンガリー方面に移動するよう命じられていたが、ここにきてグラーツを経由してレオーベン方面に向かうよう命じられている。
恐らく、ベルナドット師団がリュブリャナに集結していることを知ったカール大公は、ベルナドット師団がクラーゲンフルト方面に向かいナポレオン本体と合流することを懸念したのではないかと考えらえる。
◎4月3日夜明け前時点での両軍の離れて活動している部隊と本体との距離
リュブリャナからクラーゲンフルトまでは約70㎞、フリーザッハまでは約110㎞であり、ゼッケンドルフ旅団後衛であるホーエンツォレルン旅団のいるツェリエからブルックまでは約160㎞である。
そのため強行軍で向かうよう命じられたのだろう。
ベルナドット師団及びドゥガ騎兵隊に対する本体への合流命令
4月3日、ボナパルトは兵力を集中させる必要性をこれまで以上に認識していた。
オーストリアの援軍がすぐそばまで迫ってきており、オーストリア領内部に侵攻すればするほど後方連絡線は伸び、前線の兵力は減少して行った。
手元の兵力(マッセナ師団、ギウ師団、シャボー師団)のみでウィーンまで攻め上ることが難しいだけでなく、オーストリア軍に援軍が到着した場合、逆に数的劣勢の立場に立たされ、後退を余儀なくされる可能性すらあった。
そのためリュブリャナのベルナドット師団、トリエステのドゥガ騎兵隊に翌4日に出発してクラーゲンフルトへ向かうよう命じる書簡を送った。
その際、1,500人をカルニオラ(Carniole)公国に残し、その中からトリエステに騎兵100騎を派遣し、少なくとも6,500人の兵力をもってリュブリャナを出発するよう命じ、さらにリュブリャナを出発してから2日でクラーゲンフルトへ到着するよう求めた。
リュブリャナからクラ―ゲンフルトまでは約70㎞であり、1日平均35㎞歩かなければならない計算となる。
そのため強行軍で向かわなければならないことが予想された。
ベルナドット将軍は即座にこの命令に従った。
ジュベール師団に対する本体への合流準備命令
ボナパルトはベルナドット師団、ドゥガ騎兵隊のみならず、クラーゲンフルトからおよそ230㎞離れているジュベール師団に対しても本体への合流するために準備を整えておくよう命じた。
というのも、ボナパルトはオーストリア軍の列(スポーク師団)がザンクト・ミヒャエル周辺にいることを把握しており、ムール渓谷から側面や後方へ攻撃を仕掛けてきた場合に備えて、ノイマルクトからザンクト・ミヒャエルの間に防衛拠点を作りスポーク師団を各個撃破することを考えていた。
しかしその各個撃破の試みに失敗するか、もしくはスポーク師団がムール渓谷を通らず大回りのルートでカール大公の元に到着してしまった場合、数的優位な立場を確保するためにはジュベール師団の兵力が必要となる。
そのためドラヴァ渓谷をリーエンツまで安全に行軍できるようにしておくよう、そして総司令官からの命令が届き次第すぐに集結して翌日に出発できるよう命じたのである。
一方、当のスポーク師団はカール大公の命令によりザルツブルクへ急いでおり、すでにザンクト・ミヒャエルから移動を開始していた。
スポーク将軍は師団が危険な位置にいることを把握しており、強行軍でザルツブルクへ向かい、その先頭であるディートリッヒ旅団は3日中にはザルツブルクへ到着すると予想された。
しかし、ザルツブルクからレオーベンまでは約180㎞ほどの距離があり、カール大公本体の元に集結するには間に合わない可能性が高く、そのため何らかの対策が必要だった。
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