レオーベンへの道 12:ギウ師団による夜の追撃とマッセナ師団のロンガローネでの勝利
Road to Leoben 12

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

オーストリア軍の後退とフランス軍による夜の追撃

 1797年3月13日午前1時、ドゥガ予備騎兵隊はコルヌーダ(Cornuda)から出発し、チャーノ(Ciano)でピアーヴェ川を渡り、左岸のオーストリア部隊を押し倒した。

 ホーエンツォレルン将軍はフォンタナフレッダに旅団右翼の部隊を集結させてサチレに前衛部隊を配置し、旅団左翼をオデルツォから部隊を撤退させてモッタを占領した。

 同日、ホーエンツォレルン将軍はサチレ(Sacile)を放棄し、ギウ将軍はホーエンツォレルン将軍が放棄したばかりのサチレに進軍した。

◎ギウ師団による夜闇の中の追撃

 夜、ギウ将軍は追跡に出発し、8キロ離れたホーエンツォレルン旅団後衛に追いつき、暗闇にもかかわらず攻撃した。

 この交戦でオーストリア兵300人が捕虜となるか分散するかし、フランス側ではドゥガ将軍が負傷した。

 夜闇とオーストリア軍の効果的な砲撃により、サチレの前に布陣していたギウ師団前衛のさらなる前進が妨げられた。

 その後、ホーエンツォレルン旅団右翼は、ポルデノーネ(Pordenone)とヴァルヴァゾーネ(Valvasone)を経由するルートでタリアメント川方向への後退を加速した。

 同日、ベルナドット師団はトレヴィーゾに行き、橋が建設されていたネルヴェーザに前哨部隊を進出させた。

 ドゥガ将軍とセリュリエ将軍はコネリアーノで合流し、翌14日、ギウ将軍もそこで合流した。

ロンガローネでの戦闘

 3月13日朝、セリュリエ師団とギウ師団のピアーヴェ川渡河をベッルーノで待っていたマッセナ師団は、総司令官の命令通りピアーヴェ川沿いにルシニャン旅団の追跡を開始した。

 ルシニャン将軍は、ロンガローネ(Longarone)の渓谷を覆うために、ポルペト(Polpet)の前の確固たる防御陣地を構築していた。

◎ロンガローネでの戦闘

マッセナ VS ルシニャン ロンガローネでの戦闘

 マッセナは軽歩兵と第10猟騎兵に迂回させ周辺の高地を占領するように命じ、同時に正面から攻撃させた。

 ルシニャンは2個中隊を連れて駆け付け頑強に防御したが、部下の半数を失いロンガローネの渓谷に追い込まれた。

 しかし、ロンガローネの渓谷は高地とピアーヴェ川の間の道の狭さにより少数の兵力であっても堅固に防御することができた。

 午後5時になってもマッセナはルシニャン旅団を打ち破ることはできていなかった。

 この頃、800騎のフランス騎兵隊がピアーヴェ川を渡河し、オーストリア兵を置き去りにして、オーストリア軽騎兵隊に追いかけられながら左岸を全速力でロンガローネに向かって突進した。

 800騎のフランス騎兵隊はロンガローネの手前で軽騎兵に捕捉され、攻撃された。

 しかしその猛攻を一斉に素早く撃退し、左岸側のオーストリア部隊への襲撃を実行した。

 駐留していたオーストリア歩兵は、宿舎に散らばっており、分断され、その一部は捕虜となった。

 フランス騎兵隊が荷物の略奪に専念している間、残りはルシニャンのいるカステッロに逃亡した。

 フランスの騎兵隊はすぐに右岸に引き返し、カステッロを後ろから攻撃した。

 騎兵隊は馬上からルシニャンの陣地へ射撃を行い、その退路を遮断した。

 ルシニャン将軍は歩兵を正方形に編成して包囲を突破しようとしたがマッセナ師団の包囲は崩せず、道から押し出され、岩山を背にして追い込まれた。

 部隊の指揮官であるウデ(Ude)中佐は致命傷を負い、ルシニャン将軍の馬が撃たれた。

 ルシニャン旅団は散り散りとなり、夜7時に降伏した。

 そしておよそ2週間前に将軍となったばかりのとなったばかりのルシニャン少将含む士官8人と兵士約200人が捕虜となった。

 この日の夜、指揮官を失ったルシニャン旅団の残党はボイテ(Boite)川に沿ってコルティナ(Cortina)方面に向かって後退し、夜間にこの狭い峠を保持した。

 ボナパルトからの書簡が届き翌14日夕方にアヴィアーノ(Aviano)に到着するよう命じられたマッセナはポンテ・ディ・ガルドーナの後に1個大隊を派遣して追跡と渓谷の防衛任務を与え、それ以上の追跡を行わず、自身はベッルーノに帰還した。

 ルシニャン旅団が被った総損失は、およそ兵士600人と馬100頭だったと言われている。

 その後、ガルダ湖畔の戦い時に、当時大佐だったルシニャンがブレシアで行ったフランス軍の病人に対する振る舞いの報復としてボナパルトはルシニャン将軍を捕虜交換して釈放することを拒否し、フランスに連行した。

ベルガモ共和国の樹立

 1797年3月13日、フランスとの同盟に同意しなかったヴェネツィア共和国から各都市を切り離すボナパルトの計画が表面化し始めた。

 各都市のヴェネツィア共和国への不満を持つ人々を扇動し、まずはベルガモの市民達に独立を宣言させたのである。

 その間にも選挙が行われ、議会が形成された。

 ベルガモ共和国はその2日後、チスパダーナ共和国に併合されることが決議され、門からベルガモの紋章が外され、広場に自由の木が植えられた。