レオーベンへの道 19:地元住民の噂によるメルカンディン師団の後退とカサソーラでの戦闘
Road to Leoben 19
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
マッセナ師団のロンガローネからの北上の噂とメルカンディン師団の後退
メルカンディン将軍は、3月15日にプステリア渓谷を通りカリンシア(ケルンテン州)のオーバードラウブルク(Oberdrauburg)に到着した。
そしてそこでロンガローネでのルシニャン旅団の敗北を知った。
地元の住民達は15,000人のフランス軍の縦隊がコルティナに向かって進んでいるという情報をメルカンディンにもたらした。
つまり、ベッルーノのマッセナ将軍が主力を率いてチロル軍とカール大公本体の間に割り込もうとしているという情報である。
これらの情報は根拠の無い噂話だったが、メルカンディンはそのような不安定な地元の状況を聞き、最も近いフランス軍の動きに関するより明確な情報を収集し、何よりもジリアン(Sillian)の重要な砲兵倉庫を守るために前進を停止しなければならないと考えた。
その後まもなく、サロルノのケルペン中将からの手紙がオーバードラウブルクに到着し、続いて個々の部隊指揮官からいくつかの報告があった。
それらの情報はすべて、フリウーリ軍とチロル軍の間の連絡を維持することを目的としたクロイツベルク(Kreuzberg)周辺の駐留部隊が、はるかに強力なフランス軍による攻撃の脅威にさらされているというものであり、メルカンディンの不安を高めた。
◎マッセナ師団のロンガローネからの北上の噂とメルカンディン師団の後退
クロイツベルクの位置は南チロル州とヴェネト州の堺に位置し、南にはクローチェ山がある守りやすい地形であり、北に進むとドラヴァ(Drava)川に繋がる防衛における重要地点だった。
そのため4個大隊で構成されるディートリッヒ旅団に、ドラヴァ川沿いのジリアンとリーエンツ近郊の間に展開するよう命じた。
後に続くチロルを行進する8個歩兵大隊の内、2個大隊はリオ(Rio)、ブルニコ(Brunico)、ジリアン、リーエンツの4つの町にそれぞれ留まり、後から来る予備砲兵の分遣隊を引き入れることになっていた。
そしてメルカンディン自身がジリアンに戻った。
この日、実際のところマッセナ師団はベッルーノに戻り南にあるセッラヴァッレへ向かっていた。
恐らく前日14日にロンガローネを通ってアヴィアーノ(Aviano)への道を偵察したことがこの噂のきっかけとなったのだと考えられる。
メルカンディン将軍の決断
ジリアン到着後、メルカンディン将軍は「ディートリッヒ旅団の2個大隊をカドーレ(ルシニャン旅団残党の勢力範囲)に送り、メルカンディンと列の主力がゴリツィアに迅速に進軍しなければならないこと」が書かれた3月14日のカール大公からの命令を受け取った。
※この時点ではまだ「ヴァルヴァゾーネの戦い」は始まっておらず、カール大公はタリアメント川でフランス軍を待ち受けている。
メルカンディンはカール大公の命令に従うべきか、それとも近隣地域の危険な状況に対処すべきか、どちらを優先するべきか迷っていた。
メルカンディンはディートリッヒ旅団の1個大隊をサン・カンディド(San Candido)経由で、1個大隊をドッビャーコ(Dobbiaco)経由でルミエイ(Lumiei)川のアンペッツォ(Ampezzo)に送った。
アンペッツォの位置はオソッポから北西約40㎞ほどの位置にあり、カール大公が2個大隊を派遣するよう命じたポンテッバの位置はオソッポから北東約40㎞ほどの位置にある。
そのため、メルカンディンは、ルシニャン旅団残党の支援をしつつ、カール大公の命令にも多少なりとも応えることができるように部隊を派遣したのだと考えられる。
カサソーラでの戦闘
メルカンディン師団と同様の状況が他の地域でも起こっていた。
3月16日、「ヴァルヴァゾーネの戦い」が行われている日、ゼットウィッツ少佐率いるクロアチア2個大隊はトルメッツォに駐屯したばかりだった。
しかし、ルシニャン旅団の敗残兵からロンガローネでの出来事についての恐ろしい話を聞いた。
◎ゼットウィッツ少佐の後退とマッセナ師団の前進
その直後、「5,000人のフランス師団がヴェンゾーネ(Venzone)の近くに近づいて来ている。」という噂が広まった。
ゼットウィッツ少佐は強い懸念を持ち、確認せずにトルメッツォを撤収してデガノ(Degano)渓谷の村へ後退し、その後、デガノ川を遡り、フォルニ・アヴォルトリ(Forni Avoltri)へ撤退した。
ゼットウィッツ少佐の決断はフェッラ渓谷へのマッセナ師団の前進を誘因する結果となった。
恐らく3月18日、オーストリア軍がトルメッツォから撤退したことを知り、総司令官からの前進命令を受け取ったマッセナは左側面からの攻撃を恐れる必要が無くなり急速に前進してスピリンベルゴ、オソッポを通過し、19日にヴェンゾーネ、レジウッタ(Resiutta)を通過した。
そして19日午後7時、岩山を通って約1,500人の兵力しか有しないオクスカイ将軍が防衛するカサソーラ(Casasola)へ続く橋とキウーサ砦(Forte Chiusa)を襲撃した。
◎キウーサ砦外観図(18世紀)
歩兵は窮屈な列でカサソーラ橋に突入して塹壕を襲撃し、猟騎兵は後退するオーストリア軍を追跡し、フランス側の報告によると約600人が捕虜となったと言われている。
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