レオーベンへの道 10:ナポレオンによる攻勢計画と1797年3月10日時点でのオーストリア軍の強度と配置
Road to Leoben 10
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
ナポレオンによる攻勢計画とカルノーによる対オーストリアの全体計画
1797年3月8日、フランス軍はマゼラーダ(Maserada)を勢力下に置いた。
3月9日までにボナパルトは本部をマントヴァからバッサーノに移してそこに到着した。
オーストリアの密偵はボナパルトがバッサーノに到着すると、マゼラーダの出来事も含めて本部に伝達した。
その後、ボナパルトはオーストリア軍中央のフェルトレ方面へ攻撃的に行動することを決意し、計画を立案した。
◎ナポレオンによるタリアメント川への攻勢計画
マッセナ将軍は14,000人以上の兵士と大砲10門を擁する師団を率いてバッサーノを離れ、ジュベール師団右翼バラグアイ・ディリエール旅団の支援を受けてフェルトレ方面の山や谷を掃討し、コルデヴォーレ川(Torrente Cordèvole)を横断し、ピアーヴェ川を遡り、チェッリーナ(Cellina)川の源流からタリアメント川へ下るよう計画された。
ギウ師団、セリュリエ師団、ベルナドット師団はマッセナ師団が出発した後に行軍を開始し、コネリアーノを経由しタリアメント川へ向かうよう計画された。
マッセナ師団がタリアメント川を渡った直後、ジュベール師団はラヴィースを占領し、ケルペン将軍とラウドン(Loudon)将軍が率いるチロル軍をイン(Inn)渓谷に撤退させてインスブルックに閉じ込め、ドラヴァ(Drava)渓谷を監視する計画だった。
マッセナ師団がタリアメント川を越えて進軍した場合、ベッルーノ周辺地域は手薄となるため、チロル軍とルシニャン旅団が協力してジュベール師団とマッセナ師団の間の連絡線を脅かし、マッセナ師団やボナパルト本体の行軍を妨害する可能性があった。
そのためジュベール師団はその間、チロル軍に攻勢作戦を実行できる隙を与えないようにする必要があった。
ボナパルトはジュベール将軍にチロル軍への攻勢を継続させることによってチロル軍に攻勢作戦を実行できる隙を与えないことを求めた。
その後、ジュベールが約18,000人の兵士と30門の大砲を持ってケルンテン州境を越えてマッセナ師団と合流するかどうかは状況次第だった。
◎カルノーによる対オーストリア全体計画①
◎カルノーによる対オーストリア全体計画②
というのは、もしモロー将軍とオッシュ(Hoche)将軍がライン方面で勝利を収めて前進した場合、ボナパルト本体はケルンテン方面から、ジュベール師団はチロル方面からザルツブルクに向かいライン方面のラトゥール将軍率いるオーストリア軍の後方を遮断し、その結果、ライン方面からの2つの軍とイタリア方面軍を統合することができる可能性があるからだった。
しかし、モロー将軍とオッシュ将軍がドイツで決定的な優位を獲得していなかった場合、ジュベールはプステリア渓谷を通ってケルンテン方面に行軍し、フィラハ経由でボナパルト本体と合流する必要があり、その後、シュタイアーマルク(Steiermark)州とニーダーエスターライヒ(Niederösterreich)州を通ってウィーンに向かって行軍を続ける必要がある。
この対オーストリアの全体計画はカルノーによって提起され、実行に移されようとしていた。
ボナパルトはこれらの計画の前段階として、マッセナ将軍に対しアーゾロに師団を集結させ、翌10日にフェルトレへ師団前衛で威力偵察を行うよう命じた。
9日夜、マッセナは総司令官に師団本体をフェルトレにより接近させることを提案した。
3月10日午前1時、ボナパルトはマッセナの提案を受け入れ、マッセナ将軍に師団をフェルトレ近郊へ移動させるよう命じた。
ベルナドット師団のミラノ到着後の行程とナポレオンによるベルナドット師団の閲兵
ナポレオンは教皇領遠征が終わった後、ボローニャ(2月27日まで)、マントヴァ(3月1日~3月8日まで)、バッサーノ(3月9日から3月10日まで)、アーゾロ(3月11日から)と本部を移動させている。
その間、マントヴァもしくはパドヴァでベルナドット師団の閲兵を行い、ベルナドット将軍との会合を行ったという話がある。
オーストリア側の資料によるとベルナドット師団は3月6日にヴィチェンツァに到着しているため、そこからパドヴァに向かい3月8日~9日の間にナポレオンと会合し、3月12日にカステルフランコへ向かったことになる。
しかし、別の資料(一次資料ではない)によるとベルナドット師団はミラノを離れた後、マントヴァに行って3月3日にナポレオンと会合し、パドヴァに向かっている。
ナポレオン3世がまとめた「ナポレオン1世書簡集」では、2月27日にヴェローナに向かい再編成を行うよう命じているため、ミラノからヴェローナを経由してマントヴァへ行ったということになる。
2月28日~3月10日までの間「ナポレオン1世書簡集」にベルナドット将軍に関する書簡は掲載されていないため、その間の数日、ナポレオンとベルナドット将軍はともにいた可能性も否定できない。
まず、ナポレオンとベルナドット将軍が3月3日にマントヴァで初めて会ったという説については、ナポレオンは3月1日~3月8日までマントヴァに本部を置いているが、ベルナドット師団が2月28日にミラノを出発してヴェローナを経由しマントヴァへ向かったとした場合、その距離は約180㎞であり通常行軍で7日かかる計算となるため3日~4日でマントヴァへ行くことは無理がある。
次にベルナドット師団がヴィチェンツァを経由してパドヴァへ向かったという説についてだが、マントヴァに本部を置くナポレオンがマントヴァからバッサーノまでレニャーゴとパドヴァを経由して向かうことができ、実際、セリュリエ師団もそのルートでマントヴァからバッサーノ方面へ向かっているためナポレオンがこのルートを通った可能性は高い。
そしてベルナドット師団がミラノからヴェローナとヴィチェンツァを経由してパドヴァへ3月8日~9日までに到着することは可能である。
※ミラノから上記のルートを通ってパドヴァまでは約220㎞の距離(8日~9日の距離)がある。
そのため2つの説を比較した場合、ベルナドット師団はミラノ、ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァの順に行軍したという説の方が可能性が高いだろう。
パドヴァで両者は始めて対面し、ナポレオンは管理の行き届いたベルナドット師団に驚き、ベルナドット将軍に騎士道精神と共和主義を感じ取り、ベルナドット将軍は20代中頃のナポレオンに50代の雰囲気を感じ取ったと言われている。
実際、ベルナドットは1780年~1782年までの18か月間、コルシカ島で士官のフェンシングの教師を行っていたほどの実力者であり騎士道精神を重視していた。
そしてベルナドットが死亡した時、腕もしくは胸に「王侯に死を」と書かれた刺青が発見されたという伝説があるほどの共和主義者だった。
※ベルナドットがコルシカ島に滞在していた1780年~1782年まではナポレオンはコルシカ島におらず、フランス本土にあるブリエンヌ王立軍事学校に通っていた。
本ブログではまだ一次資料もしくは信頼できる資料の確認を行えていないため、ヴィチェンツァからカステルフランコへ向かっていることになっている。
ルシニャン旅団によるコルデヴォーレ川での防衛態勢の構築と各軍との連絡線の維持
◎コルデヴォーレ川を防衛するルシニャン旅団の配置
3月10日、ルシニャンはウディネの本部からの新たな命令を受け取った。
そのため歩兵をコルデヴォーレ川沿いのマス(Mas)に右翼を配置し、コルデヴォーレ川左岸に沿ってピアーヴェ川の合流点にまで左翼を伸ばした。
騎兵隊はコルデヴォーレ川の右岸側に立ち、フェルトレ方面を警戒した。
ホーエンツォレルン旅団との連絡を維持するために、2つの中隊がメル(Mel)に配置され、士官1人と兵士60人の分遣隊をヴァルマレノ(Valmareno)とチェザーナ(Cesana)に派遣した。
1797年3月10日時点でのオーストリア軍の強度と配置
3月10日、ケルペン将軍はサロルノに到着し、チロルの防衛のために編成された全軍の指揮を執った。
3月10日時点で、オーストリアのイタリア陸軍に所属する全軍は次の地域に配置されていた。
◎ピアーヴェ川の前衛
◎タリアメント川の主力
◎ピアーヴェ川及びタリアメント川の全軍
◎ケルペン将軍指揮下のチロル軍
◎オーストリアのイタリア陸軍の総兵力
前哨基地はチロル州兵によって防衛され、右翼側ではモルヴェーノ(Molveno)とポンテ・ディ・レーニョ(Ponte di legno)に配置されていた。
これらの地点にはラウドン旅団を支援するためにチロル州兵94個中隊の内29個狙撃歩兵中隊が配置されていた。
中央の前衛であるデゲルマン旅団の前哨基地にはチロル州兵16個狙撃歩兵中隊が割り当てられた。
左翼エリン旅団の主力はチェンブラにあり、その前衛はファエード(Faedo)、ヴァルダ(Valda)、前哨基地はリジニャーゴ(Lisignago)、ヴェルラ(Verla)、パルー(Palu)、プレッサノ(Pressano)に配置されていた。
これらの前哨基地にはチロル州兵29個狙撃歩兵中隊が割り当てられた。
その他、最左翼には3個大隊1,536人を有するシェアーズ大佐がモエーナ(Moena)をはじめ、プレダッツォ(Predazzo)、カヴァレーゼ(Cavalese)にそれぞれ1個大隊を配置していた。
このシェアーズ旅団はクロイツベルク(Kreuzberg)とその周辺でチロル軍とフリウーリ軍の連絡を維持しているスポーク旅団の一部であり、当分の間、プレダッツォとカヴァレーゼの2個大隊はチロル軍に配属されることとなった。
そしてプレダッツォとカヴァレーゼの2個大隊にチロル州兵20個狙撃歩兵中隊が割り当てられていた。
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