レオーベンへの道 02:カール大公の到着とタリアメント川への集結命令
Road to Leoben 02

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

カール大公のチロルへの到着

 2月6日、ライン方面から移動してきたカール大公はインスブルックに到着し、アルヴィンチはヴァイロサー大佐などの側近達とともにベッルーノを経由してコネリアーノに到着した。

 この日ようやく大砲74門が配備されたライン方面からの増援約22,000人(騎兵2,800騎含む)がチロルに向かって出発し、その後すぐに 10個大隊、6個騎兵中隊、大砲79門を備えたいくつかの新兵で構成された分遣隊がチロルとフリウーリ方面へ派遣された。

 その数およそ30,000人を数えた。

 7日、アルヴィンチは軍の編成にいくつかの変更を行った。

 シェアーズ(Scherz)大佐は3個大隊をルシニャン大佐に渡し、残りの2個大隊と4個中隊でアヴィーシオ川沿いにあるプレダッツォ(Predazzo)、アゴルド(Agordo)とプリミエーロ(Primiero)への峠を征服した。

 シェアーズ大佐にモエナ(Moena)、サン・ペレグリーノ(San Pellegrino)、プリミエロ(Primiero)、カヴァレーゼ(Cavalese)などを通じフリウーリ軍とチロル軍の連絡役を担わせたのである。

 カール大公はオーストリア本国にチロルからフランス軍に対抗することを伝えた。

◎承認されなかったカール大公の計画

 ライン河からフリウーリまで約700㎞の距離があり、チロルのインスブルックまでは約300㎞であるため、チロルからフランス軍に対抗した方が素早く兵力を戦場に投入でき、フリウーリまで軍を移動させるよりも有利に行動できる。

 尚且つ、トレントを占領できればフランス軍はバッサーノやフェルトレにも兵力を配置する必要に迫られるためフリウーリ方面を防衛する軍の負担は大きく軽減され、バッサーノを占領できればタリアメント川方面へ進軍するであろうフランス軍の後方連絡線を脅かすことができるのである。

 しかし、オーストリア政府はライン方面で連戦連勝しフランス軍をライン河まで押し込んだカール大公にウィーンへの脅威がより近いフリウーリ方面を防衛するよう要請した。

 そのためカール大公は、ライン方面からの増援軍や新兵で構成された分遣隊に対しチロル方面の状況を見て支援しつつフリウーリに向かうよう命じ、リプタイ旅団を指揮下に置きチロル方面の防御を固めるためにインスブルックを旅立った。

 カール大公は9日にブレッサノネ(Bressanone)に到着すると状況を把握し、サロルノをできる限り堅固に維持するよう命じ、その後コネリアーノ(Conegliano)への移動を続けた。

 2月10日、シェアーズ大佐はプリミエロを離れてプレダッツォに1個大隊を配置し、アゴルドを離れてコルデヴォーレ(Coldevole)川を遡りチェンチェニーゲ(Cencenighe)に4個中隊を配置した。

 これ以降、シェアーズ大佐はチロル軍を率いるリプタイ将軍の指揮下に入った。

 恐らくカール大公がサロルノをできる限り堅固にするためにシェアーズ大佐の部隊を引き寄せたのだろう。

 2月11日正午、カール大公はコネリアーノでアルヴィンチと合流し、指揮権を移譲された。

 アルヴィンチはアルコレ戦役及びリヴォリ戦役における敗北の重圧により、およそ3週間前から本国に総司令官職の辞職を求めていたが、2月11日にようやくその重圧から解放されたのである。

 この時、チロルとフリウーリにはわずかな平穏が訪れていた。

 フランス軍は、トレントからヴァル・スガーナ、バッサーノ、パドヴァまで広がっており、これ以上の前進を停止し、トレヴィーゾやこの戦線の前にある他のいくつかの地点から、先遣隊を撤退させていた。

 2月2日のマントヴァ要塞の降伏後、ボナパルトは教皇領への侵攻を開始し、教皇との戦いが終結するまでオーストリアに対するさらなる作戦を延期していたのである。

2月11日時点でのオーストリア軍の強度と配置

 2月11日時点でオーストリアのイタリア軍は次のように分割された。

◎1797年2月11日時点でのオーストリア軍の強度と配置

 

◎サロルノのチロル軍

 リプタイ将軍、ビカソヴィッチ将軍、グラッフェン将軍は11個大隊、15個中隊、2個騎兵中隊を有し、歩兵7,598人、騎兵220騎、合計7,818人だった。

◎フェルトレの部隊

 ルシニャン大佐とシェアーズ(Scherz)大佐は8個半大隊、半個騎兵中隊を有し、歩兵2,600人、騎兵65騎だった。

◎サン・ヴィ―トからネルヴェーザまでのピアーヴェ川右岸側の部隊

 バヤリッヒ将軍は2個と1/3個大隊、1個中隊、2個と1/4個騎兵中隊を有し、歩兵2,096人、騎兵369騎、合計2,465人だった。

◎ピアーヴェ川左岸側の部隊

 コネリアーノからピアーヴェ川の間のコボロス将軍とスポーク将軍は8個大隊、6個騎兵中隊、オデルツォ(Oderzo)とピアーヴェの橋(Ponte di Piave)の間のロイス将軍は7個大隊、2個と3/4騎兵中隊を有し、コボロス、スポーク、ロイス旅団合わせて歩兵11,998人、騎兵1,567騎、合計13,565人だった。

◎ピアーヴェ川流域の軍へ向かっているプステリア渓谷とカリンシア(Carinthia)を通る行進

 オクスカイ将軍、ゼッケンドルフ将軍は6個と2/3個大隊、6個中隊、5個騎兵中隊を有し、歩兵4,421人、騎兵520騎、合計4,941人だった。

その内の5個騎兵中隊、騎兵520騎はホーエンツォレルン将軍が指揮していたが、ホーエンツォレルン将軍はピアーヴェ川方面に呼び戻されたため、サン・ジュリアン大佐が指揮することとなった。

◎チロルへ行進中の部隊

 これらは2個大隊、4個中隊、1個騎兵中隊を有し、歩兵951人、騎兵150騎、合計1,101人だった。

◎オーストリア軍の総数

 カール大公率いるオーストリア軍の総数は45個半大隊、26個中隊、19個半騎兵中隊を有し、歩兵29,664人、騎兵2,891騎、合計32,555人だった。

※この強度と配置は、資料「Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Band 4(1833)」「Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Band 1(1835)」にわずかな違いがあるが本記事ではより古い資料である1833年のものを採用している。

タリアメント川への集結とカール大公のウィーンへの出発

 2月11日正午以降、カール大公は軍の位置を修正し、フランス軍を観察するためにホーエンツォレルン将軍のみを騎兵隊と共にピアーヴェ川に残し、タリアメント川の後ろで冬営するようアルヴィンチに命じた。

 プステリア渓谷からケルンテン州を通って行軍する部隊の内、オクスカイ将軍はガイル川とドラヴァ川の渓谷を確保し、オーストリア軍が撤退を余儀なくされた場合に備えピアーヴェ川から撤退してくる部隊を保護するためにフィラハ(Villach)とポンテッバ(Pontebba)の間に2個大隊とともに残った。

 2月12日、ゼッケンドルフ少将はタルヴィジオから、「オクスカイ将軍は2個大隊とともにフィラハとポンテッバの間に残ったこと」、「自身は残りの4個大隊、9個中隊、5個騎兵中隊とともにタリアメント川を横断して行進を続けようとしていること」を報告した。

 しかし、アルヴィンチはカール大公から冬の宿舎に移動するよう命じられていたため、ゼッケンドルフ将軍にタリアメント川左岸側に留まるよう命じた。

 2月15日に命令がゼッケンドルフ将軍に届いた時、ゼッケンドルフ旅団は丁度タリアメントを渡っているところであり、騎兵隊はすでにスピリンベルゴ(Spilimbergo)を越えていた。

 ゼッケンドルフ旅団は疲れ果てていたため近くの宿営地で休息をとった。

 2月16日、カール大公は軍を去り、増援の到着、大砲の供給、弾薬や砲弾など、あらゆる種類の戦争に必要なものを精力的な努力によって迅速化するために、ウィーンに向けて出発した。

 カール大公としてはこれらの増援が戦場に到着してようやくフランス軍に対抗できるため、増援の到着は最優先事項だった。

 しかし、これら増援の最後の縦隊のタリアメント川への到着は4月21日頃だろうと考えられた。

 アルヴィンチは総司令官としてではなくカール大公の次席としてフリウーリ方面の指揮を任された。

 2月17日、ゼッケンドルフ旅団のジェモナ(Gemona)周辺の騎兵隊とオスペダレット(Ospedaletto)、ヴェンツォーネ(Venzone)、ポルティス(Portis)周辺の歩兵は宿営を開始した。

 数日後、ゴントルイユ(Charles Philippe de Vinchant de Gontreuil)少将がオーストリア本国からの3個大隊の増援と追加の輜重隊ともにポンテッバ経由でゼッケンドルフ将軍の元に到着し、その後、タリアメント川を少し下ったところにあるサン・ダニエレ(San Daniele)とラゴーニャ(Ragogna)に向かった。

 しかしゴントルイユ旅団は疲れ果てていたため、そこに到着するまでに休息が必要であり、タリアメント川とポンテッバの間の村々に散らばって休息を取った。