レオーベンへの道 11:第一次イタリア遠征最後の戦役の開始
Road to Leoben 11
ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
---|
フランス共和国 | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人 グラディスカの戦い:推定約10,000人 タルヴィスの戦い:推定約11,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人 グラディスカの戦い:ほぼ無し タルヴィスの戦い:約1,200人 |
オーストリア | ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人 グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人 タルヴィスの戦い:推定約8,000人 |
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門 グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門 タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台 |
第一次イタリア遠征最後の戦役開始時のナポレオンの宣言
3月10日、バッサーノを本部に置く総司令官ボナパルトは麾下の軍に宣言し、教皇領遠征によって中断されていたオーストリア軍への作戦の再開を発表した。
◎ナポレオンの宣言
「イタリア陸軍兵士へ。
マントヴァの占領により、祖国を認めるための永遠の称号を諸君に与えた(リヴォリ)戦役が終了した。
諸君は14回の会戦(ロディ、ボルゲット、ロナート、カスティリオーネ、ペスキエーラ、ロベレト、カッリアーノ、第一次バッサーノ、サン・ジョルジュ、第二次バッサーノ、アルコレ、リヴォリ、ラ・ファヴォリータなど)と70回の戦闘で勝利した。
10万人以上の捕虜を捕らえ、敵から500個の野砲、1000個の大口径砲、4人の甲板乗組員を奪った。
諸君が征服した国への貢献は、すべての戦役中に軍隊を養い、維持し、諸君に支払った。
それに加えて国庫の救済のために財務大臣に3,000万を送金した。
30世紀もの歳月をかけて制作された新旧のイタリアの傑作である300点以上の作品でパリ美術館を豊かにした。
諸君は共和国からヨーロッパの最も美しい国を征服した。
ロンバルド共和国(トランスパダーナ共和国)とチスパダーナ共和国は、諸君に自由を与えられている。
フランスの国旗が、古代マケドニアから24時間の航海の反対側にあるアドリア海の海岸に初めて浮かんでいる。(古代マケドニアはアレクサンドロス大王を輩出したバルカン半島にあった国であり、エーゲ海に接しその反対側にはアドリア海がある)
サルデーニャ、ナポリ王、教皇、パルマ公は敵対勢力(第一次対仏大同盟)から離れ友好を求めた。(スペインが含まれていないのは、イタリア方面軍の功績ではないから)
そしてリヴォルノ、ジェノヴァ、コルシカからイギリス人を追い払った。
しかし、諸君はまだすべてを終えていない。
諸君には大きな運命が用意されている。
祖国がその最愛の希望を置いているのは諸君の中にある。
諸君はそれらに値し続けるであろう。
(フランス)共和国の誕生時に同盟して共和国を窒息させた非常に多くの敵の中で、(神聖ローマ)皇帝だけが我々の前に残っている。
この王は、大国の階級から自らを降格させ、ロンドンの商人の操り人形となった。
彼にはもはや政策も意志もない。
戦争の不幸を知らずに、大陸の不幸を喜んで微笑む、あの不誠実な島民(イギリス)のそれよりも。
執政政府は、ヨーロッパに平和をもたらすために何も惜しまない。
政府の提案の節度は、フランス軍の強さの影響を受けなかった。(第一次イタリア遠征が開始された当初、イタリア方面軍はピエモンテ・オーストリア連合軍よりも弱かったが、これまでずっと勝ち続けてきたことを言っている。)
フランス政府が(オーストリア政府に休戦の)相談したのは諸君の勇気ではなく、人間性と諸君を家族の元に連れ戻したいという願望だった。
しかしウィーンは聞き入れなかった。
そのため、オーストリア本国の世襲国家の中心に平和を求める以外に、平和への希望はもはや無い。
オーストリアには勇敢な人々がいて、トルコ人との戦争と現在の戦争に打ちのめされている。
ウィーンとオーストリアの州の住民は、彼らの政府の盲目さと恣意性にうめき声を上げている。
英国の金が皇帝の任命した大臣を堕落させたと確信していない者は誰もいない。
諸君は彼らの宗教と慣習を尊重し、彼らの財産を守る。
これが、勇敢なハンガリーの国に諸君がもたらす自由である。
オーストリア(ハプスブルク)家は、3世紀にわたって各戦争でその権力の一部を失い、国民から特権を剥奪することで不満を募らせてきたが、この第6の戦役(1:ロディ、2:カスティリオーネ、3:バッサーノ、4:アルコレ、5:リヴォリ。モンテノッテ戦役はオーストリアではなくサルディーニャ王国(ピエモンテ)に対する戦役なので数に含まない)の終わりには、版図が縮小されたことに気付くだろう。
なぜなら、それは我々が強制的にそうするからである。
実際に金に屈し、イギリスの強い影響下に成り下がったオーストリアに我々が与える平和を受け入れさせる。」
ナポレオンはこの宣言によって兵士達のこれまでの功績を称え、国への貢献を強調し、イギリスはもちろんそれに従属するオーストリアに勝ち続けたことを伝えて兵士達の誇りを刺激した。
そして平和を拒むオーストリア政府の圧制から住民を解放すること主張し正義を行っていると思い込ませたのである。
第一次イタリア遠征最後の戦役が開始された瞬間だった。
フランス軍によるピアーヴェ川渡河の開始
最初の打撃を与えるよう命じられたマッセナ師団はフェルトレ方面に進軍し、セリュリエ師団、続いてドゥガ予備騎兵隊がひどい天候の中アーゾロに進んだ。
◎第一次イタリア遠征最後の戦役の開始
90騎兵と軽歩兵からなるフランスの分遣隊がロヴァディナから、ピアーヴェ川右岸にあるオーストリア軍の橋頭堡に向かって前進した。
しかしレビツキー中尉に率いられた半個軽騎兵中隊に攻撃され、追い返された。
ボスコ・デル・モンテッロを過ぎて、右岸を上ってフェネルに向かって移動する強力なフランスの縦隊が発見された。
右翼を心配したホーエンツォレルン将軍は、フェルトレとメルの間の場所にピアーヴェに架かる橋があるチェザーナ経由でその周辺をフランス軍に奪われるのを恐れ、モンテ・カヴァッロのふもとにあるアヴィアーノ(Aviano)市場を観察するために、タリアメントの主力軍から2個軽騎兵隊を派遣するよう要請した。
その後すぐに、ホーエンツォレルン将軍はアーゾロに集結したセリュリエ師団がピアーヴェ川を渡る準備をしており、マッセナ師団がフェルトレへ向かって前進したという明確な報告を受け取った。
ルシニャンは「コルデヴォーレ川とベッルーノを離れ、前衛の右翼をカバーすることを諦めざるを得ないほどの敵の優位性に脅かされています。」と報告した。
ホーエンツォレルン将軍はすぐに、チェネダ(Ceneda)の上にあるセッラヴァッレ峠に8個中隊を送り、アヴィアーノに2個騎兵隊を派遣した。
同時に歩兵をリヴェンツァ(Livenza)川のほとりにあるサチレ(Sacile)とモッタ(Motta)に移動し、ピアーヴェ川は猟騎兵と騎兵隊によってのみ監視されるよう手配した。
一日中降り続く大雨で、ピアーヴェ川はかなり増水していた。
マッセナ師団の前進とピアーヴェ川の増水によるセリュリエ師団などの遅れ
翌11日、水位が高かったため、セリュリエ師団とドゥガ予備騎兵隊はピアーヴェ川を渡ることができず、バラグアイ・ディリエール旅団も雪に阻まれヴァルスガーナに引き止められた。
そのため左翼のマッセナ師団のみがルシニャン旅団への攻撃を開始した。
コルデヴォーレ川右岸側に配置されたオーストリアの前哨部隊は、川を渡って押し戻された。
活発な銃撃がコルデヴォーレ川に沿って広がり、それは夕方まで続いた。
マセナは6,000人の部隊を展開し、コルデヴォーレ川左岸側にあるマス(Mas)向かって強力な縦隊を派遣した。
夕方5時、ルシニャン旅団は退却を開始した。
ルシニャンはロンガローネ(Longarone)に16個中隊を配置し、旅団の大部分をペラローロ(Perarolo)とサン・マルティーノ(San Martino)に後退させた。
マス近郊を防衛しているクロアチア部隊は、コルデヴォーレ川を遡りアゴルドに後退するように指示された。
メル(Mel)の2個中隊はテルケ(Terche)川を自然の障壁として防衛しており、ポルペット(Polpet)では騎兵と歩兵の分遣隊が前衛として整列していた。
このように、この日マッセナはフェルトレを越えてルシニャン旅団の前哨部隊を打ち倒し、コルデヴォーレ川の渡河を成功させた。
セリュリエ師団とギウ師団によるピアーヴェ川の渡河
3月12日、大幅に水位が低下したため、ラサール騎兵隊長は第4猟騎兵の分遣隊と共にヴィドールの対岸でモンテッロ近くの川に入り、続いてルクレール将軍が第21軽半旅団の先頭に立ち、左岸に足を踏み入れた。
◎セリュリエ師団及びギウ師団のピアーヴェ川渡河の開始
レオポルド騎兵隊長率いるオーストリア騎兵隊は攻撃を仕掛けてフランス軍によるピアーヴェ川渡河を一時的に阻止したしたが、後退を余儀なくされた。
その間、セリュリエ師団の一部がピアーヴェ川を横断し、それぞれ歩兵と騎兵と砲兵を含む約4,000人の2つの列をフォンティゴ(Fontigo)に向かって平野に形成した。
その後、コッラルト伯爵領であるコッラルト(Collalto)とサン・サルヴァトーレ城(Castello di San Salvatore)を経由して2つの列でコネリアーノへ前進した。
同時に、セリュリエ師団の騎兵隊が続いた。
午後4時頃、ギウ将軍はネルヴェーザ(Nervesa)の前を流れるピアーヴェ川を横断した。
フランス軍によるこれらの機動の結果、ホーエンツォレルン旅団は後退し、左翼はモッタ、右翼はセラヴァッレに配置することとなった。
オーストリア軍の後方はコネリアーノまで激しく圧迫され、前哨部隊はメスキオ(Meschio)川沿いに位置するポンテ・デッラ・ムダ (Ponte della Muda)とリヴェンツァ川沿いに位置するサン・カッシアーノ(San Cassiano)とポルトブッフォーレ(Portobuffolè)に配置された。
そしてマッセナはルシニャン旅団がすでに退避したベッルーノに入った。
ベルナドット将軍はカステルフランコに馬で行き、そこでミュラ将軍は騎兵隊と前衛の指揮を執った。
- TOP
- Leoben 00
- Leoben 01
- Leoben 02
- Leoben 03
- Leoben 04
- Leoben 05
- Leoben 06
- Leoben 07
- Leoben 08
- Leoben 09
- Leoben 10
- Leoben 11
- Leoben 12
- Leoben 13
- Valvasone
- Leoben 15
- Leoben 16
- Gradisca
- Leoben 18
- Leoben 19
- Leoben 20
- Leoben 21
- Leoben 22
- Leoben 23
- Leoben 24
- Tarvis
- Leoben 26
- Leoben 27
- Leoben 28
- Leoben 29
- Leoben 30
- Leoben 31
- Leoben 32
- Leoben 33
- Leoben 34
- Leoben 35
- Leoben 36
- Leoben 37
- Leoben 38
- Leoben 39
- Leoben 40
- Leoben 41
- Leoben 42
- Leoben 43
- Leoben 44
- Leoben 45
- Leoben 46
- Leoben 47
- Leoben 48
- Leoben 49
- Leoben 50
- Leoben 51
- Leoben 52