マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)01:マントヴァ要塞の包囲
Siege of Mantua ( July 1796 ) 01
マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約14,500人 | 不明 |
オーストリア | 約14,000人 | 約500人以上 |
マントヴァ要塞の防衛態勢の構築
1796年6月初め、5月30日のボルゲットの戦いに敗北したボーリュー率いるオーストリア軍はミンチョ川流域からトレント方面へ逃れ再起をはかっていた。
本国との補給路を完全に断たれたマントヴァ要塞司令官カント・ディールは、6月3日にマントヴァ要塞の南西からオージュロー師団が接近すると、プラデッラの斜堤前、チェレセ橋付近に一部の部隊を残し、南側を防衛していたビカソヴィッチ旅団をマントヴァ要塞に戻した。
そして防衛のために各旅団の編成を行い配置を行った。
ロッセルミニ旅団は3,666人でチッタデッラ要塞を防衛。
ビカソヴィッチ旅団は2,449人でプラデッラ門とその角堡を防衛。
サリス大佐は1,489人でプスタ―ラ門前の堡塁を防衛。
ルカヴィナ旅団は2,443人でチェレセ門前の堡塁とミリアレットの塹壕を防衛。
サン・ジョルジョ方面はシュトリオニ大佐が防衛した。
マントヴァ要塞の包囲Siege of Mantua
6月3日、セリュリエはダルマーニュ旅団でマントヴァ要塞の東側にあるサン・ジョルジョとその橋頭保を占領した。
シュトリオニ大佐は中央の跳ね橋と郊外の門の間のサン・ジョルジョ橋に兵士を走らせ急いで撤退した。
オージュローはマントヴァ要塞南部を包囲。
チェレセ橋から製粉所を撤去し、プラデッラ門から850m離れた場所に塹壕を掘り、部隊を配置した。
オージュロー師団はこれによりチェレセ側の前線を押し上げパイオロ湖を渡り、ミリアレットの塹壕がある島に足を踏み入れることができるようになった。
しかしオージュローは島には足を踏み入れず、前線をチェレセ橋から東に伸ばしピエトレに3隻分のボート橋を建設した。
マントヴァ守備軍はこれに驚き、落ち着きを取り戻すと防衛態勢を整えた。
チッタデッラ要塞はセリュリエ、サン・ジョルジョはダルマーニュ、マントヴァ要塞南側はオージュローが封鎖し、これによりフランス軍はマントヴァを完全に包囲した。
マントヴァ要塞の詳細Fortress Mantua
マントヴァ要塞は難攻不落の大要塞だった。
西側のプラデッラ門(Porta Pradella)の前には塔に囲まれた砦が斜堤によって覆われていた。
南側ではプスタ―ラ門(Porta Pusterla)とチェレセ門(Porta Cerese)は2重の斜堤で覆われており、さらにチェレセ門の前の斜堤はミリアレット(Migliaretto)の塹壕によって守られていた。
マントヴァ要塞の北西にスペリオーレ湖(Lago Superiore)、北にメッツォ湖(Lago di Mezzo)、東にインフェリオーレ湖(Lago Inferiore)、南にパイオロ湖(Lago Paiolo)があった。
パイオロ湖は上部湖であるスペリオーレ湖と下部湖であるインフェリオーレ湖を繋ぐ一種の排水路を形成しており、2重の斜堤とミリアレットの塹壕を包み込んでいた。
乾季には湿地になりがちなパイオロ湖は1700年代半ばから排水が行われており、マントヴァ包囲時は湖というよりも沼地となっていた。
埋立が終わったのは1905年のことであり、現在は面影はほとんど無い。
水深はスペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖の順に浅くなっている。インフェリオーレ湖の平均水深は3mほどである。
マントヴァの街から湖を挟んだ北岸には5つの砦と正面を持つチッタデッラ要塞があり、ミルズのダム橋(ダムが橋の役割も担っている)によって街と接続されていた。
ミルズのダム橋は内部にある12の製粉所に動力を供給しておりレンガと土によってでききていた。
湖の東岸にあるサン・ジョルジョ郊外は貧弱な土の塹壕に囲まれ、同じ名前の石造りのダム橋によって街とつながっていた。
これら2つのダム橋は湖を3分割しており、ミルズのダム橋は水をスペリオーレ湖から中央のメッツォ湖に流すことによりメッツォ湖は6mを超える水位となった。
マントヴァ要塞の北と東は湖によって、南と西は湿地帯やパイオロ湖のあった沼地によって守られており、マントヴァでは雨季には河川が氾濫し、その湿地帯と沼地のため熱病が蔓延することで知られていた。
疫病はある意味、強力な防衛手段である。
マントヴァ駐屯軍も同条件であるが、包囲軍が疫病により溶けていくリスクを冒さずに夏にマントヴァの攻囲を実行することは不可能と思われた。
◎マントヴァ要塞見取り図(1796年)
◎マントヴァ要塞見取り図(現代地図)
チェレセ門の正面は水で覆われておらず、なおかつミリアレットの塹壕の標高は低く、塹壕は広くも深くも無かった。
そのため正攻法でマントヴァ要塞を落とすのならば、この範囲を攻撃することが最適のように思われた。
マントヴァ要塞には、歩兵約12,345人、騎兵434騎、砲兵701人、工兵96人、小艦隊乗組員の下士官60人、参謀と行政関係者101人を含む、合計13,753人が駐屯していた。
マントヴァ要塞に配備された大砲は、全口径の大砲179門、76門の臼砲と榴弾砲、60門の野砲、合計315門だった。
兵器廠には115,000丁の予備のマスケット銃があり、倉庫には多くの火薬と弾丸が備蓄されていた。
食糧に関しても、ワインと飼料を除いておよそ3ヵ月分の備蓄があると思われた。