アルコレ戦役 37:戦役の終わり
Battle of Arcole 37

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

チロル軍とフリウーリ軍の配置

 1796年11月24日、フリウーリ軍はフランス軍に追跡されることなくモンテベッロからヴィチェンツァまで行進した。

 その後、アルヴィンチは約16,000人のフリウーリ軍を4列に分割しブレンタ川の背後で防衛体制をとらせるために再編成を行った。

◎アルコレ戦役後の両軍の配置

 左翼はプロベラ将軍が率い、ホーエンツォレルン旅団、スティッカー旅団とともにパドヴァの近くに約6,000人を分散させた。

 右翼はミトロフスキー将軍が率い、自旅団とともにボルゴ・ディ・ヴァルスガーナ方面へ向かい、後に合流することになっているサン・ジュリアン大佐の旅団は前哨部隊を支援するためにヴィチェンツァに留まった。

 ミトロフスキー旅団とサン・ジュリアン旅団は合計約2,000人ほどであり、サン・ジュリアン旅団は12月1日にフランス軍が接近するとヴィチェンツァを去った。

 中央はカスダノウィッチ将軍が率い、ブリジド旅団、シュビルツ旅団(合計約8,000人)とともにバッサーノ近くに移動し、11月26日に到着した。

 ブレンタ川での防衛態勢を整えたアルヴィンチはチロル軍の状況に大きな関心を持っていたため、11月26日にフリウーリ軍の元を離れ、29日にダヴィドウィッチのいるアラに到着した。

 アルヴィンチは11月30日に本部をロヴェレトに移した。

 チロル軍は11月16日にリヴォリを攻撃する前の時点で14,617人を数えたが、17日と21日のリヴォリでの戦闘、22日のペーリでの戦闘で2,330人を失い、チロルに戻ったのは12,287人だった。

 しかしロヴェレトへの後退中、ガルダ湖北のラウドン旅団、フォアアークベルクのグラッフェン旅団、そして後部に配置されていたいくつかの部隊を加え、11月末にはチロル軍は急速に力を取り戻し動員可能兵数は19,093人を数えた。

 右翼のオクスカイ旅団はモーリ、ブレントーニコ、アーヴィオ、アルコ(Arco)、リーヴァ(Riva)、トルボレなどアディジェ川右岸側に部隊を配置していた。

 チロル軍の前衛であるビカソヴィッチ旅団はアラに留まり、支援のためにロイス将軍率いる小さな旅団がセッラヴァッレ、マルコ、サッコ(Sacco)、ヴォラーノ(Volano)に配置されていた。

 ヴァイデンフェルト大佐はロヴェレトで予備旅団を指揮し、1個大隊がトレント守備隊を形成した。

 左翼のスポーク旅団はヴァルスガーナの下部に広がりカルドナッツォで野営していた。

 スポーク将軍はロンキ、ヴァラッサ(Vallarsa)、テッラニョーロ(Terragnole)、フォルガリアの谷に前哨部隊を配置して監視し、ヴァルスガーナでフリウーリ軍のミトロフスキー旅団と繋がっていた。

 ラウドン旅団はマレからポンテ・ディ・レーニョに広がっており、グラッフェン旅団はフォアアークベルクのブルーデンツとフェルトキルヒにいた。

 アルヴィンチはチロル軍のこれらの旅団以外を宿舎に移動させた。

アルコレ戦役の終わり

 フランス軍は大きな損失を被り消耗しながらもオーストリア軍に対して優位性を獲得していた。

 フランス軍は休息を切実に必要としており、ボナパルトは急いで軍に休息を与えた。

 ボナパルトはマントヴァ要塞前の包囲軍を10,000人に増強し、マルミローロに駐留していたデュマ将軍の師団とプラデッラに駐留していたダルマーニュ将軍の師団に指揮させた。

※デュマ将軍は11月中に(恐らく増援部隊とともに)ミラノに到着しイタリア方面軍に加わっている。11月時点でナポレオンは地域住民からの財産を没収(略奪)を許可していたが、デュマ将軍はこれに反対し、両者の間に緊張が走ったと言われている。

 その他の師団はアディジェ川周辺で休息を行った。

 ヴォーボワ将軍は指揮権を失い、ジュベール将軍が指揮権を引き継いだ。

 ジュベール師団は軍の左翼を形成し、リヴォリ、マドンナ・デッラ・コロナ、ブレンティーノを保持していた。

 右翼のオージュロー師団はレニャーゴとアディジェ川下流域の防衛を担当しており、その前哨部隊はモンテベッロやヴィチェンツァまで警戒していた。

 中央のマッセナ師団はヴェローナで両翼との連絡線を維持していた。

 レイ将軍はデセンツァーノで約4,000人の予備旅団を編成し、サロー(Salo)でガルダ湖西側を監視した。

 ヴィクトール旅団約1,800人はミンチョ川のゴーイトとティオーネ(Tione)川のカステルヌォーヴォに駐屯し、状況に応じて軍またはマントヴァ要塞前の包囲軍の予備として機能することになっていた。

 ドゥガ(Dugua)将軍は600~700騎の予備騎兵隊とともにヴィラフランカに向かった。

※ドゥガ将軍は1793年に行われたトゥーロン攻囲戦時にデュゴミエ将軍の参謀長として活躍した人物。

 そしてボナパルトはオーストリア軍が優勢な部隊でアディジェ渓谷方面から進軍してきた場合に備え、左翼と中央部がそこに退却できるようカステルノーヴォに塹壕陣地を建設するよう命じた。

 このように両軍、チロル山中とブレンタ川で対峙し、オーストリア軍、フランス軍ともに休息に入った。

 死傷者や捕虜などを合計して、フランス軍はこのアルコレ戦役で19,507人を失い、オーストリア軍は約17,000人~18,000人を失ったと推定される。