アルコレ戦役 03:マントヴァ要塞の完全包囲
Battle of Arcole 03

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

ローマとナポリ王国の策動

 1796年9月下旬、ローマ政府とナポリ王国は条約を締結し協力体制を築こうとしてた。

 条約はナポリ王国領に囲まれた飛び地であるベネベント公国をナポリ王国に割譲する代わりにナポリ王国は60,000人の兵で教皇領を支援するという内容だった。

 さらにローマ政府はあわよくばボローニャとフェラーラを奪い返すことを企図して約800人の民兵と6門の大砲をトスカーナ大公国との国境付近に位置するモンタルト(Montalto)に派遣した。

◎教皇によるモンタルトへの民兵派遣

 トスカーナ大公もこの計画に協力しており、教皇の民兵への武器供給を行っていた。

 ボナパルトは対峙しているオーストリア軍だけでなく、裏で策動している国々への対応も迫られていたのである。

※10月2日、ボナパルトは「ナポリ王と教皇は画策しており、マントヴァ要塞が占領できなければ裏で策動し続けるだろうこと」、「フランス政府がローマ及びナポリ王国への遠征を望むなら45,000人の増援が必要であること」、「ローマへの進軍が可能になるまでの間、ローマ政府とは交渉状態を保つことを望んでいること」などの内容が書かれた書簡をフランス政府宛てに送っている。

マントヴァ要塞の完全包囲

 ゴヴェルノロの戦いでの敗北によりヴルムサーは心理的に出撃しずらい状況に置かれていたものの、キルメイン将軍は「ヴルムサーは(採餌活動のために)再びプラデッラ門前の塹壕とチェレセの礼拝堂を通って出撃するだろう」と考えていた。

 キルメインとしてはこれ以上オーストリア軍の出撃(採餌活動)を許す必要は無く、そのためマントヴァ要塞内のオーストリア軍を干上がらせることを計画した。

 1796年9月29日、キルメインはプスターラ門前に部隊を進め、プラデッラ門とチェレセ門の前に配置されているオーストリア軍の前哨基地を攻撃した。

 短い銃撃戦の後、オーストリア軍は要塞内に避難した。

◎フランス軍によるプラデッラ門、チェレセ門前の占領

 キルメインは部隊を派遣して2つの門の前方を占領し、オーストリア軍が門の前に部隊を展開するのを防ぐために砲台を建設した。

 これ以降、マントヴァ要塞は完全に封鎖されることとなった。

包囲の外に残されたオーストリア部隊の珍道中

 同日午前10時頃、キルメイン師団がマントヴァ要塞を完全に包囲する前にオーストリア軍の150~200人で構成される部隊がボルゴフォルテでポー河を渡河し、近隣の村から穀物と飼料を購入していた。

 マントヴァ要塞に帰還しようととしたが、要塞はすでにフランス軍に取り囲まれており帰還することができなかった。

 150~200人のオーストリア部隊はフィレンツェに到達しようと数日間歩き、遂にパルマとモデナの間に位置するレッジョ(Reggio)に到着した。

 恐らく、マントヴァからヴェネツィアまでの陸路はフランス軍の勢力下にあるため、手薄なフィレンツェ方面から教皇領に出て船でトリエステに行こうとしたのではないかと考えられる。

 しかし、武装したレッジョの市民警備隊にパルマ州のモンテキアルーゴロ(Montechiarugolo)まで追いかけられ、10月3日、モンテキアールゴロ城に立て籠もった。

◎マントヴァ要塞に帰還できなかったオーストリア部隊の道程

 この時のレッジョは親フランスでありモデナからの独立運動を行っていたため、フランスの敵であるオーストリア兵を捕らえようとしたのである。

 10月4日に戦闘(モンテキアルーゴロの戦い)が行われ、オーストリア部隊は捕らえられた。

 この戦闘でレッジョの市民警備隊に2人の死者が出たと言われている。

 彼らのその後は不明だが、マントヴァ要塞で飢餓に苦しむよりも捕らえられた方が幸福だったのかもしれない。