アルコレ戦役 35:ダヴィドウィッチ師団による包囲の突破とチロル方面での戦いの終わり
Battle of Arcole 35

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

チロルへの道

 1796年11月21日夜、ペーリとアラを経由してチロルに至る唯一の退路をオージュロー師団に遮断されたダヴィドウィッチには力づくで道を切り開く以外に選択肢はなかった。

 ダヴィドウィッチはペーリを占領するフランス軍の激しい銃撃を乗り越えて戦い、損失を出しながらペーリを突破した。

 夜の闇を利用してフランス軍を振り切るためにフランス軍の砲撃にも反撃せず、時間を無駄にすることなくアラに向かった。

 ダヴィドウィッチは21日の夜12時前頃にアラに到着し、11月20日夜7時の日付のアルヴィンチからの書簡を受け取った。

 その書簡には「ダヴィドウィッチ師団がリヴォリ周辺でフランス軍に全力で抵抗することを確約するならアルヴィンチはアディジェ川を渡ってフランス軍を挟撃すること」が書かれていた。

 しかしこの時ダヴィドウィッチは既にフランス軍に敗れアラに撤退していため、チロル軍の現状を報告することでアルヴィンチに返答した。

 ダヴィドウィッチは散り散りとなった師団をアラに集結させるために奔走したが、夜明けまでにその一部しかアラの塹壕の後ろに集結させることができなかった。

 ビカソヴィッチは行軍速度を速めるために、ペーリの近くの列を舟橋を架けて通過しようとしたができなかった。

 ビカソヴィッチはペーリで師団の後退を覆った後、ペーリの前に舟橋を残さなければならなかった。

 11月22日午前0時、ビカソヴィッチは後衛とともにペーリを去り、オッセニゴ(Ossenigo)を経由してボルゲットに退却した。

 そしてオッセニゴとボルゲットの間に前哨部隊を配置した。

 22日未明、ダヴィドウィッチは「チロル軍の現状」と「これ以上の侵攻作戦への参加は不可能であること」が書かれた書簡をアルヴィンチに送った。

フリウーリ軍によるオージュロー師団の追跡

 11月21日、アルヴィンチはフランス軍の位置と動きのある程度の情報を得ており、そしてボナパルトが主力でヴィラフランカを越えて前進したことも知っていた。

 さらにアルヴィンチは、レニャーゴに約3,000人、ヴェローナに約4,000人のフランス兵が配置されており、ロンコ付近の2ヵ所の異なる位置に砲台が設置され、ミュラ将軍指揮下の強力な歩兵分遣隊が配置されていると思っていた。

 これらの配置は偵察部隊によってもたらされた情報に依ったものであり、実際のフランス軍の強度よりもかなり誇張されたものだった。

 アルヴィンチ視点では、レニャーゴ、ロンコ、ヴェローナにフランスの大部隊が配置されており、その数と配置はフリウーリ軍よりも優勢であると確信していた。

 そのためアルヴィンチは約16,000人にまで減少したフリウーリ軍でアディジェ川を渡るのは無謀だと考えていた。

 そこへ11月21日の夜から22日未明にかけてオージュロー師団がヴェローナとレッシーニ山脈を越えてチロル軍の背後に位置するペーリに向かって行進しているという明確な報告が届いた。

 22日朝、アルヴィンチは2個大隊とともにシュビルツ将軍を派遣した。

◎フリウーリ軍の配置とシュビルツ旅団の派遣

 ラヴァ―ニョ(Lavagno)を経由してクイント(Quinto)周辺に出てレッシーニ山脈に侵入したオージュロー師団の背後を取り、ルーゴを経由してオージュロー師団を追跡することがシュビルツ将軍を派遣した目的だった。

 22日、シュビルツ旅団以外のフリウーリ軍はアディジェ川を渡らず前日の位置を保持したが、アルヴィンチは小さな変更を行った。

 フリウーリ軍の一部にヴィチェンツァを経由してブレンタ渓谷方面への後退を開始させたのである。

 アルヴィンチ視点で見ると、この時点ではフランス軍を打ち倒すのに困難な態勢であったとしても明確な敗北ではなかった。

 退路を脅かされたダヴィドウィッチ師団がチロル方面への撤退を余儀なくされた場合のこと、そして分断されているダヴィドウィッチ師団との連絡線を再確立することを考慮し、ブレンタ渓谷方面に部隊を向かわせたのだと考えられる。

チロル軍との戦いの終わり

 11月22日朝、ダヴィドウィッチはスポーク旅団とビカソヴィッチ旅団でペーリに向かって後部を覆った。

 そして可能であれば舟橋用の舟を回収しようとした。

 ペーリのフランス軍の数は多く、スポーク将軍とビカソヴィッチ将軍は防御に徹しペーリに攻撃を仕掛けることはしなかった。

 しかしフランス軍がペーリから前進したため小規模な戦闘が発生した。

 戦闘中、ルシニャン旅団の分遣隊が本体との合流を果たすために高山側から突然現れ、フランス軍の真っ只中に下りてきて銃剣でフランス軍を突破しようとした。

 フランス軍は最初の突撃に驚き、ルシニャン旅団の分遣隊の先頭はフランス軍中を突破しビカソヴィッチ旅団との合流を果たした。

 しかしその後に続いた2個中隊は落ち着きを取り戻した優勢なフランス軍に取り囲まれ、抵抗の末捕虜となった。

 午後8時、フランス軍は完全にペーリから後退し、舟は7隻が無傷で発見された。

 周辺を見渡すとフランス軍は夜間に舟を組み立て、一部を野営のための薪にした形跡があった。

 この時フリウーリ軍はヴェローナ近郊にまで迫ってきており、それに対応するためにボナパルトは退却中のダヴィドウィッチ師団に注力するのをやめ、意識をフリウーリ軍に向けたのである。

 オーストリア軍は21日と22日の2日間の戦闘で81人(内士官1人)が死亡、170人(内士官3名)が負傷、1,608人(内士官18人)が捕虜となり、合計1,859人(内士官22人)が失われた。

 そして、大砲3門、舟橋14隻、その他弾薬などを失った。

 対するフランス軍の損失はわずかなものだったと言われている。

ダヴィドウィッチ師団の態勢の立て直し

 一方、オクスカイ師団はバルド山の入り口付近とマドンナ・デッラ・コロナを占領していた。

 しかし、厳しい寒さ、身長の半分の高さの雪、そして木材と食料の深刻な不足によりこの位置を維持することができなかった。

 そのため11月22日、オクスカイ将軍はブレントーニコ、カスティオーネ(Castione)、ナーゴにわずかな前哨部隊を残し、主力とともにモーリ(Mori)とラヴァッツォーネ(Ravazzone)に向かった。

◎脱落後のダヴィドウィッチ師団の態勢立て直し

 オクスカイはフランス軍に妨害されることなくバルド山を通って後退した。

 ビカソヴィッチ旅団はペーリとボルゲットを占領していた。

 ダヴィドウィッチは左翼を繋いでフリウーリ軍との連絡線を再確立するために、フレダ谷をを通って山脈に入り、エルベッツォ(Erbezzo)、コステ(Coste)、フォッセ(Fosse)、ロッカ・ピア(Rocca pia)に数個大隊を派遣した。