アルコレ戦役 06:小競り合いの始まりとオーストリア軍の圧力の増加
Battle of Arcole 06

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

小競り合いの始まり

 1796年10月初め、ヴォーボワ師団は約8,000人でトレント周辺を防衛していた。

 ヴォーボワは前衛でチロルのオーストリア軍前哨基地を攻撃し捕虜を得た。

 この時点からヴォーボワ師団はチロルのオーストリア軍と小さな勢力争いを始めることになる。

 10月7日、マッセナ師団は参謀長、旅団長など重要な役職を埋めることなく約5,000人の兵士とともにバッサーノに到着した。

 マッセナはバッサーノに到着するとすぐにオーストリア軍に占領されたカステルフランコとヴォーボワ師団の状況を把握するためにボルゴ・ヴァルスガーナへ偵察部隊を派遣した。

 カステル・フランコに向かった偵察部隊は、その後チッタデッラへの偵察命令を受け取った。

 カステル・フランコのオーストリア軍を確認したマッセナはバッサーノを中心として部隊を配置した。

 チロルの峡谷を毎日偵察するためにバッサーノ北のブレンタ渓谷の両岸に部隊を配置し、チッタデッラへの道を監視するためにバッサーノの南にあるブレンタ川の支流ロスタ・ローサ(Rosta Rosa)を占領した。

※現在ロスタ・ローサ川は灌漑用水路の発展とともに失われたが、18世紀(1,700年代)から19世紀(1,800年代)までは存在しいたブレンタ川の支流の1つである。
「バッキリオーネ県の水域の調査を検討する委員会からの通知(1804-1813)」によると、ローサ、チッタデッラ、ガリエラ、カステッロ・ディ・ゴーデゴ、カステルフランコ、サン・フロリアーノへ主に灌漑用水用として河川水を供給していた。そのため、ローサとチッタデッラの間からカステルフランコ周辺まで流れていたのではないかと考えられる。

◎マッセナ師団によるバッサーノ占領と部隊配置

 マッセナは後方の防衛のためにヴィチェンツァにも部隊を配置したかったが、兵力が足りなかったため配置できなかった。

 そのような事情もありヴェローナからバッサーノへ向かった十分に補給を得ていた半旅団がオーストリア軍からの攻撃を受け、3分の1未満にまで打ち減らされたという出来事があった。

 バッサーノに定着したマッセナは、その後カスダノウィッチをピアーヴェ川を越えて押し戻すことに成功した。

 10月7日、マントヴァ要塞側では、ヴルムサーが採餌活動のためにチッタデッラ要塞から部隊を出撃させていた。

 プラデッラ門前は封鎖され、プスターラ門、チェレセ門前はフランス軍の砲台が設置され、サン・ジョルジュはフランス軍により占領されていた。

 そのためヴルムサーとしてはチッタデッラ要塞から採餌活動を行う他なかったのである。

 出撃した部隊はソアーヴェ(Soave)に行く途中にあるコルテ・プラダ・アルタ(Corte Prada Alta)の城を攻撃した。

◎プラダでの戦闘

 しかし、プラダの城はフランス軍の大隊によって補強され、オーストリア部隊を撃退し100人を捕虜にした。

チロル方面からの圧力の増加

 10月2日にモロー将軍率いるライン・モーゼル方面軍がブーハウ(Buchau)近郊のカール大公軍に反撃を行った。

 そしてビーベラッハの戦いで勝利し、約5,000人の捕虜を得たという情報がボナパルトの元に届いた。

 しかし、チロルではオーストリア軍の増援が次々到着してきており、ボナパルトはこの勝利を疑った。

 これには、モロー将軍の勝利にもかかわらずバーノンビル(Beurnonville)将軍率いるサンブレ・エ・ムーズ軍が動かなかったため、モローはユナング(Huningue)への撤退を続けなければならず、カール大公軍はその後も進軍を続け支配領域を広げていたためオーストリア政府はチロルとフリウーリ方面に多くの増援を送ることができたという事情があった。

 そのためチロル方面へのオーストリア軍の増援は滞り無く到着したのである。

 この時点で、オーストリア軍は、チロルのダヴィドウィッチ師団約14,000人、ピアーヴェ川以東のフリウーリ軍の兵力は約15,000人に増加していた。

 ボナパルトはフランス政府に増援部隊の到着を早めるよう促した。

 10月8日、ボナパルトは筆をしたため、「本官はかなり健康状態が悪いので後任を要請しなければならないと考えていること」、「降り続く雨で多くの病人が出ていること」、「多数のオーストリアの部隊がチロル山中を行軍していること」、「イタリア方面軍の将軍にすべてがゆだねられない限り、フランス政府は大きな危険を冒すことになるだろうこと」などが書かれた書簡をミラノからフランス政府宛てに送っている。

 つまり、イタリア方面軍は病人で溢れかえっていて戦力が弱体化している、そしてチロルにオーストリア軍の増援が続々と到着しているから早く増援を到着させないと体調不良を理由にイタリア方面軍総司令官職を辞任すると脅し、自分にイタリア方面軍の全権を委ねられなければフランス政府に何か不幸が起きるかもしれないと不安を煽ったのである。

 本国からの増援が到着するまでの間、ボナパルトはアッダ川の重要渡河地点であるピッツィゲットーネ、オリオ川流域の4つの重要地点であるトッレ・ドーリオ(Torre d'Oglio)、ボッツォーロ(Bozzolo)、ポンテヴィーコ(Pontevico)、ソンチーノ(Soncino)、大きな要塞のある4つの重要都市であるブレシア、ペスキエーラ、ヴェローナ、レニャーゴ、ポー河に架かる橋を有する3都市であるピアチェンツァ、パヴィア、アレクサンドリアに防衛態勢をとらせた。

◎ボナパルトが防衛態勢をとらせた重要地点

 そしてガルダ湖とマントヴァの周囲の湖にボートを取り付けた。