アルコレ戦役 12:ヴォーボワ師団による攻撃の開始
Battle of Arcole 12

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

ヴォーボワ師団による攻撃の開始

 11月2日午前3時、ダヴィドウィッチより先にヴォーボワ師団が動き始めた。

◎サン・ミケーレでの戦闘

 ギウはコロナ山に登りサン・ミケーレ(San Michele)を攻撃した。

 サン・ミケーレはオクスカイ旅団が占領しており、入り口にはバリケードが設置され、家屋は防衛のために準備されていた。

 戦いは5時間続いた。

 ギウ旅団の攻撃は3度撃退されたが、4度目の攻撃でサン・ミケーレの占領に成功した。

 オクスカイ旅団の一部はアディジェ川を渡り、多くはマセット(Masetto)に後退した。

 ギウは橋に火を付け、オクスカイを追って次の橋のあるマセットに向かった。

 オクスカイはマセットにフランス軍から見えないように砲台を設置し、1日中ギウ旅団の攻撃から町と橋を防衛した。

 この戦闘でギウは300人を捕虜にしたと言われている。

◎チェンブラ及びセゴンツァーノ城での最初の衝突

 同時にフィオレラは半旅団の先頭に立ちチェンブラ峡谷(Val di Cembra)に侵入し、ビカソヴィッチの前哨基地を撃退してチェンブラを占領し、ガスパールは橋を渡りセゴンツァーノ城(Castello di Segonzano)を攻撃した。

チェンブラ及びセゴンツァーノでの戦闘

 ダヴィドウィッチはこのフランス軍の攻勢に対し急いでいくつかの大隊を集め、ビカソヴィッチにチェンブラからセゴンツァーノ村を通って前進するよう命じた。

◎チェンブラ及びセゴンツァーノでの戦闘

 ビカソヴィッチはヴォーボワとフィオレラを押し戻しチェンブラを取り戻した。

 これによりセゴンツァーノ城を攻撃しているガスパール将軍は退路の1つを遮断された。

 ビカソヴィッチ旅団はセゴンツァーノ城を強固に守り、チェンブラとリジニャーゴで強く抵抗した。

 ヴォーボワは正面からの攻撃を諦め迂回攻撃を行おうとしたが、道に迷ったため迂回攻撃は実現しなかった。

 チェンブラの再占領を諦めたヴォーボワはフィオレラにラヴィースへ後退するよう命じ、その途中でヴォークス将軍の部隊と合流した。

 チェンブラとリジニャーゴを守り切ったビカソヴィッチは、戦いにより分散したチェンブラ周辺の部隊を集結させ、ラヴィースに撤退して行くヴォーボワを追跡せずにセゴンツァーノを攻撃しているガスパール旅団を包囲しようとした。

 ガスパール旅団はベドッロを攻撃していなかったため右側面ががら空きだった。

 ビカソヴィッチはベドッロからガスパールの右側面と後部へ向かって進んだ。

 1個大隊でセゴンツァーノの橋を駆け抜けフランス軍を追い出した。

 その後、ガスパール旅団は包囲され、正面の城と後方の村から攻撃された。

 ガスパール旅団はかなりの被害を被って逃亡し、レニャーナ(Regnana)川を渡ってセヴィニャーノ(Sevignano)まで追跡され、一部はピネ(Pine)に逃れた。

 ヴォーボワはラヴィースへの後退を続け、ギウにサン・ミケーレからナーヴェ・サン・フェリーチェに後退するよう命令した。

 セゴンツァーノでの戦闘でガスパール旅団は270人の兵士を含む10人の士官が捕虜になったと言われている。

 ダヴィドウィッチ師団の損失は、2人の士官、108人の兵士が死亡し、10人の士官、543人の兵士が負傷し、8人の士官、445人の兵士が捕虜となり、全体の損失は20人の士官、1,066人の兵士だった。

 11月14日付けのボナパルトへの報告によるとヴォーボワ師団の損失は、死者100人、負傷者300人、捕虜250人だったと言われている。

 11月2日の夜、オクスカイはギウのいなくなったサン・ミケーレを再占領し、ビカソヴィッチ旅団はチェンブラ、セゴンツァーノ、ベドッレ、そしてモンテ・コロナの麓に部隊を配置していたが、モンテ・コロナの頂上には強いフランス部隊が配置されていた。

 ダヴィドウィッチはこれらの戦闘の間にノイマルクトの部隊の一部とともにラヴィースに行進し、夕方にセゴンツァーノ近くでアヴィシオ川を渡ってベドッロでビカソヴィッチ将軍と合流した。

 この日、同時にレーヴィコ・テルメにおいても小規模の戦闘があったが、オーストリア部隊は撃退され、ヴォーボワはペルジーネに周辺部隊を集結させた。

 この11月2日の一連の戦闘によりダヴィドウィッチが11月1日に作成した侵攻計画は約2日ほど遅延することとなった。