アルコレ戦役 11:チロル方面の動向とフリウーリ軍の急接近
Battle of Arcole 11

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

ヴォーボワ将軍の攻撃計画

 10月31日、ヴォーボワはボナパルトからダヴィドウィッチ師団に対し攻撃を仕掛けるよう命令を受けた。

 ヴォーボワ師団約10,500人に対しダヴィドウィッチ師団は19,000人であり、無謀な攻撃命令のように見える。

 尚且つボナパルトは2個半旅団をマッセナの元に派遣させようとしていたため、実際のところ約7,500人ほどで攻撃させようとしていたということになる。(2個半旅団が派遣されることは無かったのだが)

 可能性として、ボナパルトはダヴィドウィッチ師団の強度を過小評価していたか、雪が降り積もる山岳地帯で先制攻撃を行うことによって主導権を握り攻撃的な機動によって兵力差を補い防衛しようとした、もしくはその両方なのではないかと考えられる。

 ヴォーボワは侵攻計画を立案し師団中央の再編成を行い4つの列を形成した。

◎ヴォーボワ将軍の攻撃計画

 左翼を指揮するギウ将軍は、歩兵約1,500人、1個騎兵中隊とともにナーヴェ・サン・フェリーチェ(Nave San Felice)からサン・ミケーレに進軍する。

 サン・ミケーレを占領後、橋を燃やしノイマルクトに向かう準備を行う。

 ヴォークス(Vaux)将軍は歩兵約600人で1列目と3列目の間の山(恐らくファエード方面)を進軍しオーストリア軍を押し戻す。

 中央を指揮するフィオレラ将軍は歩兵約1,800人でチェンブラへ向かう。

 右翼を指揮するガスパール(Gaspard Eberlé)将軍は約2,500人強の第85半旅団を率いフィオレラ旅団とともにチェンブラ峠に侵入した後、アヴィシオ川を渡ってセゴンツァーノの村と城を占領する。

 セゴンツァーノ方面を奪うことによりチロル軍とフリウーリ軍との連絡を遮断する計画だったのだろうと考えられる。

※師団左翼はガルダンヌ将軍がトレントからトルボレの間を約3,500人強で防衛し、師団右翼はペルジーネ周辺を約500人で防衛していた。

ダヴィドウィッチ師団の再編成

 10月31日、ダヴィドウィッチ率いるチロル軍は歩兵17,494人、騎兵972騎で構成されていた。

 右翼をオクスカイが指揮を執り、ラウドン旅団歩兵3,352人、騎兵362騎、オクスカイ旅団歩兵3,379人、騎兵35騎を有し、ラウドン旅団はポンテ・ディ・レーニョ(Ponte di Legno)、マレ(Male)、アンダロ(Andalo)にあり、エドロ(Edolo)、ティオーネ(Tione)、モルヴェーノ(Molveno)を警戒していたが、デンノ(Denno)周辺に移動した。

 オクスカイ自身が指揮する旅団は、ロヴェッレ・デッラ・ルーナ(Rovere' della Luna)とメッツォコロナ(Mezzocorona)、メッツォロンバルド(Mezzolombardo)、サン・ミケーレ(San Michele)、ザンバーナ・ヴェッキア(Zambana Vecchia)に部隊を配置しており、35騎の騎兵は偵察や警戒に使用された。

 中央をスポークが指揮を執り、歩兵4,024人、騎兵351騎を有し、旅団はラヴィースに相対してモンテ・ゼオ(Monte Zeo)とファエード(Faedo)に前衛を配置し、残りはサロルノを占領していた。

 左翼はビカソヴィッチが旅団を指揮し、歩兵2,665人、騎兵33騎を有し、チェンブラとセゴンツァーノ、ベドッロとセッテフォンターネ(Settefontane)に部隊を配置していた。

 分遣隊をセウレン(Seulen)中佐が指揮し、歩兵1,548人、騎兵35騎を有し、フィエンメ渓谷(Val Fiemme)にあるカヴァレゼ(Cavalese)からスガーナ渓谷にあるパル(Palu)、テルヴェ(Telve)、トルチェーニョ(Torcegno)へ部隊を移動させた。

 そして前哨部隊をストリーニョ(Strigno)に配置し、ボルゴ・ヴァルスガーナからプリモラーノへ哨戒部隊を派遣していた。

 ロイス旅団は歩兵2,526人、騎兵136騎を有し、予備としてノイマルクトにおり、中央と左翼を統括していた。

◎10月31日時点でのダヴィドウィッチ師団及びヴォーボワ師団の配置

 11月1日、ダヴィドウィッチはフランス軍の配置と強度を調査し、これらの部隊と到着した増援部隊を再編成して6つの旅団を形成した。

 1列目:ラウドン旅団、歩兵3,915人、騎兵362騎。

 2列目:オクスカイ旅団、歩兵4,200人、騎兵463騎。

 3列目:スポーク旅団、歩兵2,560人。

 4列目:ビカソヴィッチ旅団、歩兵3,772人、騎兵30騎。

 5列目:ビカソヴィッチ旅団、歩兵2,958人、騎兵120騎。

 6列目:セウレン旅団、歩兵1,022人、騎兵74騎

 合計:歩兵18,427人、騎兵1,049騎を数えた。

 対するヴォーボワ師団は総勢10,520人だった。

 ダヴィドウィッチは翌11月2日夜明けにヴォーボワ師団を両翼から包囲しトレントとロヴェレトを占領する侵攻計画を実行に移そうとしていた。

フリウーリ軍の前進とマッセナ師団の対応

 1796年11月1日、マッセナは密偵からの連絡を受け、オーストリア軍が18門の大砲とともにピアーヴェ川を渡ったことを知った。

 マッセナはすぐにバッサーノ周辺からあらゆる方向に偵察部隊を派遣した。

 副官ソルネット将軍にマルティニャゴ(Martignago )への道を偵察し、シニョレッサ(Signoressa)とポルチェッレンゴ(Porcellengo)を経由しトレヴィーゾ(Treviso)からカステルフランコへの大道を通って戻ってくるよう指示した。

 デュコス(Ducos)にはアーゾロ(Asolo)を経由しペデロッバ(Pederobba)へ進み、ピアーヴェ川を遡ってフェルトレ(Feltre)に向かい、ピアーヴェ川を下ってクレスパーノ(Crespano)を経由し戻ってくるよう指示した。

 カステルフランコに向かったルクレールはオーストリア部隊を発見し、3回連続で突撃した後、バッサーノに戻った。

 この時点までにはフリウーリ軍の前衛であるカスダノウィッチ師団はトレヴィーゾにおり、その前衛がモンテベッルーナとカステルフランコ周辺まで進出したのだろうと推測される。

◎マッセナによる偵察部隊の派遣とフリウーリ軍の進軍状況

 その後、師団は武装して夜を過ごした。

 ソルネットとデュコスはオーストリア騎兵隊に追われ11月3日の朝まで戻って来ることができなかった。

 ボナパルトはマッセナに書簡を送り、3時間ごとに使者を送って状況を逐一報告させるよう言付けし、前進の準備が整っていることを伝えた。

 11月2日、アルヴィンチはカンパーナの近くに建設された橋にいた。

 そしてフリウーリ軍とともにピアーヴェ川を渡り、ロヴァディナ(Lovadina)とヴォルパーゴ(Volpago)で野営した。

 ミトロフスキーはブレンタ渓谷に侵入するために旅団のほとんどをフェルトレに集結させていた。