アルコレ戦役 25:アルコレ戦役 25:アルコレの戦い<前夜>とダヴィドウィッチ師団によるリヴォリへの侵攻計画
Battle of Arcole 25

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

アルコレの戦い前夜

 1796年11月14日、ボナパルトが恐れていたヴェローナへの攻撃は行われることなく夜を迎えた。

 夜、オージュローとマッセナはわずかな騒音のみでキャンプを撤収し、夜10時~11時までに黙ってヴェローナを横断し、ボーモント率いる3個騎兵大隊が後衛を務めた。

 士官と兵士は自分たちはマントヴァ要塞に撤退していると思っていた。

 しかし、実際に向かっていたのはロンコであり、彼らの行進は東に向かった。

 ロンコでは、夜の間にロベルト将軍が1個半旅団を率い、いかだでアディジェ川を通過しアンドレオシー少佐率いる工兵隊が橋を架けるのを保護した。

 アンドレオシーはアディジェ川とアルポン川の堤防が合流する地点の近くでアディジェ川が大きく曲がりくねった場所の下流に舟橋を架けた。

 川幅は約122m以上だったと言われている。

 橋は右岸の砲撃できるポイントに大砲を移動させることによってのみ攻撃でき、そのポイントから砲撃した場合、フランス軍に側面を晒さなければならなかった。

 ボナパルトは砲兵の観点から、橋を破壊されないために考え抜かれた地点に橋を架けたのである。

 3個大隊を保有しているミトロフスキー将軍指揮下のブリジド(Brigido)大佐は4個大隊、1個騎兵中隊を有しており、サン・ボニファーチョ、アルコレを占領し、偵察部隊をアルポーネ川に沿ってゼルパ(Zerpa)、ロンコ(Romco)、ビオンデ(Bionde)方面に派遣し、アルバレード(Albaredo)には1個大隊を配備していた。

◎フランス軍によるロンコの舟橋の建設とオーストリア軍の対応

 アルバレードの大隊は対岸で橋を架ける作業を行っているフランス軍を発見した。

 アルバレードの大隊は警鐘を鳴らさず橋の建設の妨害もせず、最大の沈黙を保ってアルコレに後退した。

 対岸のフランス軍は大軍であり、アルバレードに1個大隊しか持たないブリジド大佐の部隊はフランス軍に発見されて作業を急がせないよう、そして後方を遮断されないよう静かにアルバレードを去ったのだと考えられる。

ダヴィドウィッチ師団によるリヴォリへの侵攻計画

 11月15日朝、オクスカイ旅団はアルティリオーネから進軍し、バルド山の岩場と冬の厳しさを乗り越え、戦うことなくフランス軍がマドンナ・デッラ・コロナを放棄することを強制した。

 ドラー(Döller)大佐はアディジェ川右岸でブレンティーノ(Brentino)を占領した。

 ビカソヴィッチ旅団はペリからアディジェ川左岸沿いを南下してドルチェに進み、分遣隊をキウーサ砦に派遣した。

 フランス部隊はキウーサ砦とその背後のヴェローナに続く道で防衛体制を取っていた。

 そしてリヴォリ周辺のフランス軍は8,000人ほどであると推定され(実際にはギウ旅団などがヴェローナに向かっており6,000人ほどになっていた。)、これを打ち砕くには10,000人~12,000人が必要だと考えられた。

 そのため再編成を行ってオクスカイ旅団を強化するためにアディジェ川左岸側にいるスポーク旅団とヴァイデンフェルト旅団をバルド山中のオクスカイ旅団と合流させ、ビカソヴィッチ旅団を強化して早急にドルチェまで南下させる必要性が生じ、ダヴィドウィッチはそのための手配を行った。

◎ダヴィドウィッチ師団によるリヴォリへの侵攻計画

 ルシニャン大佐はスタッラヴェナからヴェローナに向けて哨戒部隊を派遣した。

 サン・ヴィターレ(San Vitale)のセウレン旅団はカルディエーロに向かっているミトロフスキー旅団との連絡線維持のために2つの部隊を向かわせた。

ダヴィドウィッチ師団の遅れによるヴェローナへの攻撃の中止とアルコレの戦いの始まり

 11月15日午前7時頃、アルヴィンチはダヴィドウィッチが前日にペリから送った書簡を受け取り、計画が遅れていることを知った。

 アルヴィンチは午前10時にヴァーゴから攻勢に出るつもりで準備しており、ダヴィドウィッチの遅れにより攻勢を停止せざるを得なくなった。

 そしてアルヴィンチはダヴィドウィッチに書簡を送った。

 その書簡にはダヴィドウィッチ師団は部隊を集結させて時間を無駄にすることなくリヴォリを占領しブッソレンゴに進みヴェローナに向かうべきであるとの明確な命令が書かれていた。

 アルヴィンチはダヴィドウィッチ師団の進捗とダヴィドウィッチの対応の悠長さに苛立ったのではないだろうか。

 そのためヴェローナに向かうべきであると明確に指示したのだろうと推測される。

 この書簡をダヴィドウィッチに送った数分後、アルヴィンチの計画を完全に妨害する出来事が発生した。

 1796年11月15日午前9時頃、アディジェ川下流方面から数発の大砲の砲撃音が鳴り響いた。

 ボナパルトの計画通り、15日未明にマッセナ師団とオージュロー師団はロンコに到着し、舟橋を架けてアディジェ川左岸に渡り攻撃を仕掛けたのである。

 これがアルヴィンチにとってアルコレの戦いの始まりの合図となった。