アルコレ戦役 02:両軍の状況
Battle of Arcole 02

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

フランス軍の状況

 1796年9月15日以降、サン・ジョルジュの戦いで傷ついたマッセナ師団はロヴェルベッラで過酷な日々を過ごしていた。

 夏の終わりとはいえ猛暑でありロヴェルベッラは水田が点在する湿地にあるため、すぐに病気が発生しマッセナはそれに対応しなければならなかった。

 9月23日、マッセナはボナパルトの副官に師団の一部をヴィチェンツァまたはヴェローナへ派遣するよう要求した。

 ボナパルトはこれを拒否できず、ヴィクトール旅団をロヴェルベッラに残し、他の部隊には休養地としてヴェローナを割り当てるよう命じた。

◎マッセナ師団のヴェローナへの移動

 しかしヴィクトール将軍はサン・ジョルジュの戦いで受けた2つの傷の治療を受けるためにマッセナに報告せずミラノに向かっていた。

 この規律違反はマッセナを一層苛立たせた。

 ベルティンは負傷しており、ランポンは熱でベッドに臥せていたため彼らの仕事のすべてはピジョン将軍に任せられた。

※アンベルクの戦い以降、ライン方面ではジュールダン将軍率いるサンブレ・エ・ムーズ軍はカール大公の前に敗北をつづけており、9月23日、ジュールダン将軍はその責任を負い総司令官職を解任されている。

 9月25日、その日は雨が降っていた。

 マッセナ師団はヴェローナに到着したがヴェローナは師団を受け入れる準備ができていなかった。

 そのため斜堤の端の泥だらけの地面で宿営することを余儀なくされた。

 マッセナは「師団をこのように不当に扱うことは非人道的であり、師団を病気にさらし、ヴェローナの住民の財産を荒廃させるだろう」ということをヴェネツィア当局に伝えた。

 つまり、もっとまともな宿営地を整えないとヴェローナを略奪するぞと脅したのである。

 ヴェネツィア当局はマッセナの脅しに屈し、師団はヴェローナの東側に位置するヴェスコヴォ門(Porta Vescovo)の兵舎に宿営し、半旅団はサン・ミケーレで宿営することになった。

◎ヴェローナの防衛施設

 マッセナ師団はひどい状態であり、マッセナがこのように要求するだけの理由があった。

 上級士官のほとんどが死亡もしくは病気で倒れており、下級士官のほぼ半数が行方不明だった。

 4番軽歩兵半旅団は700人に減り、32番半旅団(ランポン指揮下)には旅団司令官も大隊長も不在だった。

 18番半旅団(ヴィクトール指揮下)に至っては旅団司令官と大隊長が不在なだけではなく、上級士官が1人しか残っていなかった。

 サン・ジョルジュの戦いが激戦であったのに加え、熱病の蔓延が深刻だったのである。

 マッセナは副官のシャブランを本部に送り、ボナパルトにこれらのポストを埋めるよう促した。

 ヴォーボワ師団は引き続きチロル方面でダヴィドウィッチと対峙していた。

 ボン将軍率いるオージュロー師団は師団長であるオージュローが療養中であり、ランヌ、ミュラなどの上級士官が負傷して戦線を離脱していた。

 ボン将軍率いるオージュロー師団は約5,000人の兵力を有し、マントヴァ要塞南東に位置するミンチョ川の重要な渡河点であるゴヴェルノロの防衛任務を行っていた。

オーストリア軍の状況と侵攻計画の立案

 バッサーノ戦役におけるヴルムサー元帥の敗北はオーストリア政府の信頼を揺るがすことは無かった。

 そのためオーストリア政府は三度マントヴァ要塞救出のための軍を形成するために奔走した。

 オーストリア内部にあった既存のいくつかの大隊と新兵で形成されたいくつかの連隊で、約2,000人にまで打ち減らされていたカスダノウィッチ師団を大幅に強化し、大砲、砲弾、弾薬などの軍需物資を前線に運び込み、食糧を購入し倉庫の備蓄量を増やした。

 アディジェ川やピアーヴェ川を渡るための舟橋を作るために工兵隊を形成し、侵攻準備を着々と整えていた。

 そして1796年9月27日、アルヴィンチ砲兵大将が新たな救援軍の司令官となり、ヴルムサー元帥とともにマントヴァ要塞に閉じ込められている参謀長ラウアー将軍の後継としてヴァイロサー(Weyrother)中佐が就任した。

 ヴァイロサー中佐は将来、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)において対仏大同盟軍側の作戦を立案することになる人物である。

 アルヴィンチ大将はヴァイロサー中佐を伴いダヴィドウィッチ中将とスポーク少将が待っているボッツェンに到着した。

 ボッツェンでは3度目となるマントヴァ要塞救出作戦が話し合われた。

 第一段階としてチロル軍率いるダヴィドウィッチはフリウーリ軍右翼として11月3日にトレントを占領しする。

 フリウーリ軍率いるカスダノウィッチはピアーヴェ川を渡り、11月3日にはブレンタ川を越えてバッサーノで指揮を執る。

◎オーストリア軍の侵攻計画

アルコレ戦役におけるオーストリア軍の侵攻計画

 この第一段階目はチロル軍がトレントを、フリウーリ軍がバッサーノを占領することによりブレンタ渓谷を支配下に置き、長くはあるが連絡線を確立することが目的である。

 そして第二段階としてチロル軍は11月4日にカッリアーノを占領し、その後、状況に応じたルートを選択しつつ南下し、できるだけ早くフリウーリ軍との統合(短い連絡線を確立する)を図る。

フリウーリ軍はブレンタ川を渡ってヴィチェンツァを経由してヴェローナに向かう。

 その間マントヴァ要塞にいるヴルムサー元帥は動員可能なすべての兵士とともにマントヴァ要塞を離れ、フランス軍の後方に出て強力な迂回攻撃を行い、チロル軍とフリウーリ軍とともにフランス軍を合撃するのである。

 アルヴィンツィの計画が成功した場合、フランス軍の損害は大きく、マントヴァ要塞の放棄を余儀なくされ、ポー河やアッダ川を越えて撤退することになるだろうと考えられる。