アルコレ戦役 10:ヴルムサーによるマントヴァ要塞脱出作戦とチロル軍及びフリウーリ軍の前進
Battle of Arcole 10
カルディエーロの戦い、アルコレの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
---|
フランス共和国 | カルディエーロの戦い:約13,000人 アルコレの戦い:約19,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門 アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人 |
オーストリア | カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人 アルコレの戦い:約22,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人 アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門 |
ヴルムサーのマントヴァからの脱出作戦とチロル軍及びフリウーリ軍の前進
1796年10月27日、ボッツェン(Botzen)周辺のダヴィドウィッチ本体がノイマルクトへ前進を開始した。
ダヴィドウィッチはフランスの前哨部隊をセゴンツァーノ(Segonzano)、ベドッロ(Bedollo)、テルベ(Telve)、およびそれら周辺のいくつかの村から追い出した。
これによりヴォーボワはマッセナ師団との連絡線の1つを遮断された。
10月28日午前4時頃、マントヴァ要塞側では、ヴルムサーが軍を伴ってマントヴァ要塞を離れようとしていた。
そしてインフェリオーレ湖の葦に覆われているサン・ジョルジュとヅィパタ(Zipata)の間に上陸した。
◎マントヴァ要塞からの脱出作戦
これらのポイントの指揮官であるモロー(Jean-Claude Moreau)大佐はオーストリア軍に精力的に攻撃を加え、ボートに戻した。
ヴルムサーは無秩序に再乗船し、多くの死者を出し150人が捕虜となった。
同日、プロベラはカスダノウィッチの元に到着し、その後全軍が集結した。
10月29日、カスダノウィッチはフォンタナフレッダから行進を再開し、30日にはピアーヴェ川の近くに位置するカンパーナ(Campana)に到着した。
◎フリウーリ軍の集結と前進
※カンパーナ(Campana)は現在のポンテ・デッラ・プリウラ(Ponte Della Priula)周辺にあったと考えられる。
その後、ピアーヴェ川を渡ってブレンタ川のほとりにあるフォンタニーヴァ(Fontaniva)へリプタイ旅団を向かわせた。
チロルでの衝突
10月29日の夜から30日未明にかけてチェンブラ(Cembra)にいたビカソヴィッチ将軍は、セゴンツァーノの城をフランス軍に襲撃され城を去った。
しかしビカソヴィッチは最小限の損失でセゴンツァーノ城を奪い返した。
フランス軍の前哨部隊はレニャーナ(Regnana)川を渡ってセヴィニャーノ(Sevignano)とピアッツェ(Piazze)に引き戻された。
10月30日、ダヴィドウィッチは麾下の将軍の何人かと共にファエード(Faedo)村からフランス軍を偵察し、各部隊の動きを命令した。
偵察を支援するために、強い力でチェンブラとコロナ山(Monte Corona)の間を行進させた。
ヴォーボワはこれらの部隊を高所から見下ろし、対抗策を講じた。
フランス軍はリジニャーゴ(Lisignago)を占領しようとしたがオーストリア軍はリジニャーゴに分遣隊を派遣しフランス軍に対抗させた。
激しい戦いが夜まで続き、フランス軍は遂に後退して行った。
マッセナ師団の強化案
10月30日、マッセナは強力な偵察部隊を派遣し、騎兵の分遣隊に支援された約300人のオーストリア歩兵部隊をトレヴィーゾを越えてコルネリアーノ方面へ追跡した。
カスダノウィッチはマッセナ師団が進軍しピアーヴェ川を渡ろうとしていると考え、すぐに野営地から師団を出撃させ、左岸に一列に並べた。
マッセナはピアーヴェ川左岸に展開するカスダノウィッチ師団をじっくりと調べ、騎兵隊の状態が良くないことに気づいた。
騎兵の育成は歩兵と比較してより多くの時間がかかるため、失われた騎兵の補充は難しかった。
そのため騎兵隊の多くはいままで戦い続けてきた部隊がほとんどだった。
そしてマッセナはオーストリアの脱走兵を捕まえ取り調べを行った。
脱走兵は「歩兵は主にポーランドの新兵で構成されており、ピアーヴェ川を渡って脱走するのを待っている」ことを語った。
マッセナはこれらのことをボナパルトに報告する時、同時にマッセナ師団の置かれている立場の危険性を伝えた。
マッセナ師団の勢力範囲はバッサーノからピアーヴェ川まで広範囲に広がっており、4,000~5,000人のオーストリア軍を撃退するだけの兵力は無く、予備兵力も無いこと。
そして降り続くこの時季の雨が道を水浸しにして大砲を通行不能にし、マッセナがヴィチェンツァへ後退するのを妨げた場合のことを伝えたのである。
ボナパルトは増援を送るかマッセナ師団をヴィチェンツァに後退させるかの選択を迫られた。
ボナパルトはピアーヴェ川を越えてアルヴィンチを後退させた後、ブレンタ渓谷を進み、アルヴィンチとダビドウィッチの連絡線を断ち切ろうと計画していたためマッセナ師団がバッサーノから後退することを選択肢から外した。
マッセナは、もし後退する場合はオーストリア軍が近くにいる中での後退はオーストリア軍を勢いづかせる可能性があるため、バッサーノを攻撃される前にヴィチェンツァへ後退する方が良いことを指摘した。
そして、もし増援を送る場合はヴォーボワ師団から2~3個半旅団を分離しマッセナ師団の元に送ることを提案した。
この時季、すでにトレント周辺の道は雪で塞がれていたためダヴィドウィッチ師団が進軍するのは困難である考えられた。
ボナパルトはヴォーボワ師団から部隊を分離することを決定し、ヴォーボワに2個半旅団をボルゴからマッセナの元に送るよう命じ、オージュローに1個半旅団をモンテベッロに送るよう命令した。
◎マッセナ師団の強化案とナポレオンの計画
しかしヴォーボワ視点だと、増援を受け取り兵力を増大させたダヴィドウィッチ師団が10月27日以降圧力を強めているため、ボナパルトの決定は困惑以外何ものでもなく、2個半旅団を送ることはできなかった。
マッセナはこれらの援軍を受け取る代わりにブレンタ川流域で8日間持ちこたえることを約束した。
そのためマッセナはバッサーノ周辺に徐々に兵力を集結させた。
この時点でのフランス軍の計画は、恐らくマッセナがブレンタ川流域で持ち堪えている間にオージュロー師団で急行しフリウーリ軍を撃退し、その後ヴォーボワ師団とともにダヴィドウィッチ師団を叩くというものだったのだと考えられる。
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