アルコレ戦役 18:ナポレオンによるヴェローナへの撤退命令とカッリアーノでの戦闘<2日目>
Battle of Arcole 18
カルディエーロの戦い、アルコレの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | カルディエーロの戦い:約13,000人 アルコレの戦い:約19,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門 アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人 |
オーストリア | カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人 アルコレの戦い:約22,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人 アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門 |
ヴィニョール将軍によるバルド山の強化とラウドン旅団の一時停止
11月7日午前2時頃、ボナパルトの元にチロル方面で戦っているヴォーボワ師団の敗報が届いた。
11月5日の時点でヴォーボワはトレントを放棄して2つの城のあるカッリアーノへ後退しており、そこでダヴィドウィッチを食い止めるべく防衛線を構築していた。
ヴォーボワはもはやアディジェ川右岸にほとんど部隊を持っておらず(ノーミには一部の部隊がいた)、カッリアーノからモーリの間で包囲の危機に晒されていた。
この時点でバルド山からリヴォリはがら空きであり、バルド山やリヴォリ方面にダヴィドウィッチ師団右翼が進出してきた場合、ヴォーボワはヴァラッサ、もしくはレッシーニ山脈を経由して後退しなければならず、フリウーリ軍とチロル軍から挟撃されてしまうのである。
そのためボナパルトは当初の計画を修正し、マッセナ師団とオージュロー師団にヴェローナへ後退するよう命じ、ヴィニョール少将にヴェローナに集結できるすべての兵を集めさせコロナとリヴォリに派遣した。
◎ヴィニョール将軍によるバルド山の強化とラウドン旅団との接触
さらにマントヴァ要塞を包囲しているキルメイン師団からも744人の1個軽歩兵半旅団を派遣させた。
ヴィニョールはヴァンデ(Vendée)から到着してきたばかりの大隊を率い、コロナにやってきた最初の前哨部隊を制圧した。
コロナにフランス部隊がいることを察知したラウドンはバルド山方面への前進を止め、モーリのガルダンヌ麾下の5個大隊を攻撃した。
ガルダンヌ麾下の5個大隊は舟橋を渡って左岸に逃亡し、アディジェ川を障壁として防衛態勢を取った。
ラウドンはバルド山とアディジェ川という2つの障壁により前進を阻まれ、アディジェ川左岸のチロル軍本体が到着するまで進軍停止を余儀なくされた。
マッセナ師団とオージュロー師団の撤退
マッセナは負傷者をヴィチェンツァに移送した後、1796年11月7日午前4時に撤退を開始し、オージュロー師団もマッセナ師団の後に続いて撤退を開始した。
オージュロー師団の後退を見たホーエンツォレルン将軍は前衛とともにフランス軍の追跡を開始した。
◎マッセナ師団とオージュロー師団の撤退
この時、ブレンタ川右岸近くのすべての小道と畑は人と馬の死体で覆われていたと言われており、第二次バッサーノの戦いの壮絶さを物語っている。
しかし11月7日にプロベラがアルヴィンチからカルミニャーノに向かうよう命じられた時、フランス軍の夜襲を恐れたプロベラはフォンタニーヴァの島と左岸を繋ぐ橋をすでに破壊していた。
そのためプロベラは橋の再建を待たなければならず、プロベラの支援が無いことを知ったカスダノウィッチはホーエンツォレルンの前進を停止させた。
11月7日午後1時頃、橋が再建されプロベラはようやく進軍を開始した。
日が落ちた頃、プロベラ師団の前衛旅団の分遣隊である2個大隊、2個騎兵中隊がリジエラ(Lisiera)に到達すると、そこにはフランス軍の後衛部隊がいた。
戦闘が発生し、フランス軍の後衛はリジエラの町に避難し、真夜中に完全に後退して行った。
オーストリアの分遣隊はこの戦闘で5人が死亡し、31人が負傷、2人が捕虜となり、合計38人の兵士と5頭の馬を失った。
7日夜9時頃、プロベラはサン・ピエトロ・イン・グ(San Pietro In Gu)に到着し、カスダノウィッチは夜遅くにスカルダフェッロ(Scaldaferro)に移動し宿営した。
11月7日の夜、アルヴィンチはスカルダフェロでダヴィドウィッチとミトロフスキー宛てに書簡を送った。
ミトロフスキー宛の書簡では、ブレンタ渓谷から出てフリウーリ軍に近づくよう命令した。
この日、アルヴィンチから派遣された使者がマントヴァ要塞に到着し、マントヴァ要塞救出作戦が始まったことを知らせた。
カッリアーノでの戦闘<2日目>
11月7日午前6時頃、ダヴィドウィッチはカッリアーノへ攻勢をかけた。
同時にトレントから強力な分遣隊を出発させた。
谷を通過させてヴォーボワの右側面を脅かしつつフリウーリ軍との連絡線を繋ぐためにヴィチェンツァ方面に向かった。
ビカソヴィッチ旅団が前面に立ち、スポーク旅団はビカソヴィッチ旅団の支援を行った。
オクスカイ旅団はノーミに進軍し、丘からヴォーボワ師団の左側と後部への砲撃を行った。
ヴォーボワも応戦しつつベセノ城の封鎖を解くために部隊を派遣した。
午前6時から午後3時半までカッリアーノとベセノ城周辺で一進一退の攻防を繰り広げつつもヴォーボワは優勢に戦局を進めており、約500人の捕虜と2門の大砲と榴弾砲を鹵獲した。
ヴォーボワ師団の騎兵隊も主要道路沿いに来るオーストリア兵を時々追い散らしていた。
日没まで残り1時間ほどとなったところで砲弾と弾薬が不足し始めたため、ヴォーボワは負傷者や捕虜の弾薬を使用した。
午後4時頃、ダヴィドウィッチに勝利の女神が微笑みかけた。
ペルジーネから山岳地帯を通ってロヴェレトに向かっていたクロアチア人分遣隊がロヴェレトに到着し、ヴォーボワ師団の後部を襲ったのである。
◎カッリアーノでの戦闘:2日目
ヴォーボワ師団は突如現れたクロアチア人分遣隊の発した大きな戦闘音によりその弱点を晒した。
ダヴィドウィッチは2個大隊を投入しカヴァッロ川周辺ののヴォーボワ師団正面を攻撃した。
突然パニックがヴォーボワを襲い、踏みとどまろうとする兵士達を飲み込んで前線は総崩れとなった。
ヴォーボワ師団の兵士達はカッリアーノを放棄し、橋を渡って逃亡した。
ビカソヴィッチ旅団は逃亡するヴォーボワ師団の兵士達を追撃して砲兵を切り刻んだ後、4門の大砲と2門の榴弾砲を奪い取った。
同時にロイス将軍とスポーク将軍は第3列と第4列の残りの部隊とともに前進した。
ビカソヴィッチは山側にも1個大隊を派遣して戦線を押し上げ、同時にベセノ城周辺を掃討して包囲した。
ベセノ城内には未だ城内に25人の士官と216人の兵士がいたが、フランス軍は諦めて降伏した。
午後5時頃、オーストリア軍はベセノ城を占領した。
オーストリア軍はピエトラ城にも殺到し、そこにいたフランス大隊は撤退したが、補強を受けピエトラ城を奪還した。
しかしオーストリア軍は再度ピエトラ城を攻撃して占領した。
オーストリア騎兵隊はフランス軍を追跡し、さらに多くの捕虜を捕らえた。
11月7日午後8時頃、カッリアーノでの戦闘の敗北によりヴォーボワは急速にそして混乱しながらロヴェレトを通過した。
そしてアディジェ川左岸側に沿ってドルチェに群がり、舟橋を渡ってリヴォリに向かった。
この戦闘でのオーストリア軍の損失は死者:士官2人、兵士190人、負傷者:士官10人、兵士731人、捕虜:士官3人、兵士586人、合計:士官15人、兵士1,507人、馬11頭であり、対するフランス軍は1,000人以上が捕虜となったと言われている。
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