アルコレ戦役 08:イギリス地中海艦隊の撤退と戦役開始直前のイタリア方面軍の強度
Battle of Arcole 08
カルディエーロの戦い、アルコレの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | カルディエーロの戦い:約13,000人 アルコレの戦い:約19,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門 アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人 |
オーストリア | カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人 アルコレの戦い:約22,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人 アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門 |
イギリス地中海艦隊の地中海からの撤退
スペイン王国は1796年9月の段階でイギリス地中海艦隊への偵察などを行っており、10月5日、スペインがフランスと締結した条約の通りにポルトガルとイギリスに宣戦布告を行った。
同時にフアン・デ・ランガラ(Juan de Lángara)提督率いるスペイン艦隊がイギリス地中海艦隊を撃滅すべくカディス(Cádiz)港から出港し、トゥーロンへ向かった。
イギリス地中海艦隊はフランスとスペインの同盟締結以降も地中海で活動していたが、物資の供給は少なくなり不利な立場に立たされていた。
フランスがコルシカ島への侵攻を計画していることを知ったイギリス政府は、9月末にコルシカ島からの極秘の撤退命令を地中海艦隊司令官ジャービスの元に送った。
ジャービスはコルシカ島民に知られないように撤収作業を行い、ネルソンにエルバ島を避難先に定めて占領させた。
1796年10月10日、イギリス地中海艦隊がコルシカ島からの撤退を始めた時、イギリス地中海艦隊が地中海において力を失うことを察知したナポリ王国はフランスと和平条約の締結を行った。
これによりボローニャとフェラーラを奪還しようと画策していた教皇の目論見は打ち砕かれた。
10月15日から19日にかけて倉庫に備蓄していた銃や迫撃砲、食糧などや人員の撤収作業が急いで行われた。
イギリス地中海艦隊司令官ジャービスはコルシカ島の撤収作業をネルソンに任せ、1713年以降イギリス領となっているジブラルタルに向かった。
そして19日正午、遂にフランス軍がコルシカ島北端に位置するコルス岬に上陸した。
フランス軍がバスティアの港町を見下ろす高台に現れると、ネルソンはバスティアの住民に対し「町に入れるなどフランス軍に組する行動をした場合、バスティアの町を破壊する」と脅し、10月21日の朝までに乗船を完了させ、ネルソンはコルシカ島の東に位置するエルバ島に向かった。
◎イギリス地中海艦隊のコルシカ島からの撤退
エルバ島は、将来(1814年)ナポレオンが小領主として追放される場所である。
フランス軍は11月4日までにイギリス海軍がいなくなったコルシカ島全域を再征服し、フランスとスペインは地中海において圧倒的優位を確立した。
ネルソンは一時イギリス国王の地中海からの撤退命令を思い留まらせた。
しかしフランスとスペインの艦艇を合計すると38隻であり、対するイギリス地中海艦隊は15隻だった。
そのためジャービスはネルソンに地中海からの撤退を命じた。
ネルソンはエルバ島を放棄し、11月中に地中海からの撤退を完了させた。
これによりフランスは11月中には地中海における制海権を完全に取り戻したのである。
アルコレ戦役開始直前のイタリア方面軍の兵力
ボナパルトは、トリエステに対するフランス政府としての見解をオーストリアに送るよう再度要請した。
ボナパルトがフランス政府に再度の要請を行った目的は、最初の時と同じく数的劣勢を少しでも緩和するためにオーストリア軍の兵力を分散させることだった。
ボナパルトの要請に対し、フランス政府は、この戦い(アルコレ戦役)に勝ちマントヴァとトリエステを奪うため、そしてヴェネツィアへ条約を強要するために「トリエステに対するフランス政府としての見解」ではなく「援軍」を派遣することを決定した。
政府の行動を待っている間、ボナパルトはトレッツォ(Trezzo)城とピアチェンツァ、パヴィア、アレクサンドリアの要塞化を加速させた。
1796年10月初旬から下旬にかけて、ヴォーボワ師団は雪の降るチロルでダヴィドウィッチ師団と戦い続けていた。
しかし、ダヴィドウィッチ師団は徐々にその数を増しており、10月中旬~下旬時点での戦力はダヴィドウィッチ師団の歩兵約18,000人、騎兵約1,000騎に対し、ヴォーボワ師団は約8,000人だった。
ヴォーボワはダヴィドウィッチ師団の正確な全兵力を把握しているわけでは無かったが、徐々に押されていた。
そのためボナパルトはヴォーボワ師団を一旦トレントに後退させ強化した。
※10月中旬時点でのキルメイン師団の兵力は歩兵約7,500人、騎兵約1,500騎、合計約9,000人であり、10月22日時点でのキルメイン師団の兵力は7,882人であるため、キルメイン師団麾下の歩兵と騎兵の一部に加え、他の師団か到着した増援をヴォーボワの元に送ったのではないかと推測される。
◎1796年10月22日時点でのイタリア方面軍の構成、兵力および位置
10月22日時点での各フランス師団の兵力は、ヴォーボワ師団10,520人、マッセナ師団5,311人、オージュロー師団5,603人、キルメイン師団7,882人であり、イタリア方面軍の動員可能兵力は29,316人だった。
フランス本国と約束した増援の多くは未だ到着せず、ボナパルトが想定していた50,000人には遠く及ばなかった。
そのためボナパルトはオーストリア軍による3度目となるマントヴァ要塞の救出作戦を阻止できなかった場合であっても、オーストリア軍に高い代償を支払わせることを決意した。
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