アルコレ戦役 14:ダヴィドウィッチ師団による侵攻の始まり
Battle of Arcole 14
カルディエーロの戦い、アルコレの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | カルディエーロの戦い:約13,000人 アルコレの戦い:約19,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門 アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人 |
オーストリア | カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人 アルコレの戦い:約22,000人 |
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人 アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門 |
ダヴィドウィッチ師団による侵攻の始まり
11月3日、ダヴィドウィッチはベドッロに部隊を集結させ、深い峡谷に入り、セヴィニャーノを包囲するために前進した。
ヴォーボワはラヴィースに本部を置き、ヴォーボワの右翼はセヴィニャノ、ピアッツェ(Piazze)、ピネ、パルー(Palu)に部隊を配置し、中央はナーヴェ・サン・フェリーチェ、左翼はトルボレにあった。
◎ダヴィドウィッチによる侵攻作戦の開始
ベドッロからビカソヴィッチ旅団が前進してきたことによりピアッツェで戦闘が発生し、ビカソヴィッチ旅団は士官3人を含む82人が死傷もしくは捕虜となり、6頭の馬を失った。
ビカソヴィッチ将軍指揮下の第5列はフランス部隊を排除しパルーを占領した。
セヴィニャーノのフランス部隊はロナ(Lona)に後退した。
スポーク旅団は地形により進軍が遅れ、夜遅くにアヴィシオ川を渡ってセヴィニャーノの前に到着した。
※侵攻計画に無いこの11月3日のピアッツェへの攻撃は、スポーク旅団のセゴンツァーノへの到着が遅れ、その遅れをビカソヴィッチ旅団が負担したため発生したと考えられる。この時、ビカソヴィッチは前哨部隊をセヴィニャーノの前に置き、セヴィニャーノのフランス軍を包囲しようとする必要性があったのだろう。
ヴォーボワは右翼側から包囲される危険を察知し、セヴィニャーノとピネの右翼を強化し、夜、一部の前哨部隊を残し左翼をラヴィース周辺からトレントへ後退させた。
さらにトレントの西側を保護するためにカディネ(Cadine)とテルラーゴ(Terlago)に前哨部隊を配置し、一部をピエトラ城(Castel Pietra)とベセノ城(Castel Beseno)のあるカッリアーノへと後退させた。
フリウーリ軍の接近とマッセナ師団のヴィチェンツァへの撤退
11月3日、フリウーリ軍はバルコン(Barcon)近くの野営地に進軍していた。
アルヴィンチがすぐそこに迫っていることを知ったマッセナは付近の橋に設置されていた2つの大砲をバッサーノに戻すよう命じ、モンテベッロに到着していたオージュロー師団前衛の1個半旅団にバッサーノに向かうよう命じた。
しかしモンテベッロのオージュロー師団前衛部隊は遠すぎてこれから始まるであろうフリウーリ軍前衛との戦いに間に合わないだろうと考えられた。
◎フリウーリ軍の接近とマッセナ師団のヴィチェンツァへの撤退
これによりマッセナ師団がブレンタ川流域で持ち堪えている間にオージュロー師団が到着しフリウーリ軍を叩くという当初の計画は崩れ去った。
マッセナがこれらの状況をボナパルトに知らせると、戦わずヴィチェンツァへ後退するよう命令を受けた。
マッセナ師団はバッサーノに集結し、11月4日午前3時に撤退を始めた。
モンテベッロのオージュロー師団前衛部隊はマッセナ師団の後退支援のためにヴィチェンツァへ移動した。
デュプイは1個半旅団と騎兵隊を率い前衛を形成した。
砲兵はメナード旅団とラウネイ(Launay)旅団に保護されてデュプイの後を追い、マッセナは9個選抜中隊とともにその1時間後にバッサーノを出発した。
ルクレール将軍は騎兵隊を率い極端な後衛を形成した。
ダヴィドウィッチ師団左翼の前進
11月4日午前10時頃、地形によるスポーク旅団の進軍の遅れなどにより予定より4時間遅くなったが、ダヴィドウィッチはロナとピアッツェへの攻撃を開始した。
◎ピネ(Pine)高原での戦闘
ビカソヴィッチは旅団を3つに分割しピアッツェを正面、右側面、後部から包囲した。
ピアッツェのフランス軍はピアッツェ湖西岸沿いを通りリッツォラガ(Rizzolaga)に後退した。
しかしフランス軍は標高1,515mのセラモンテ(Ceramonte)を登りビカソヴィッチ旅団右翼を脅かした。
ビカソヴィッチは分遣隊を派遣しセラモンテのフランス軍分遣隊を妨害した。
おそらく、リッツォラガで防衛しセラモンテから迂回攻撃を仕掛けビカソヴィッチの連絡線を脅かし後退を促す計画だったのだろうと考えられる。
午後4時頃、ビカソヴィッチ将軍はリッツォラガからフランス軍を追い出し占領した。
その後、日没に向けてヴィーゴ(Vigo)とミオラ(Miola)で有利な位置を占めていたフランス軍をかなりの損失を出して追い出し、チヴェッツァーノ(Civezzano)へ後退させた。
その日の夜、ビカソヴィッチ旅団はミオラの前で野営した。
一方、11月4日午前9時頃、第3列を率いるスポーク将軍はロナに向けて出発し、ロナからフランス軍を追い出しラゼス(Lases)に後退させた。
夜遅く、第3列はラゼスのフランス軍をアルビアーノまで後退させたが、ラゼスに押し戻された。
その後、左隣のビカソヴィッチ旅団がミオラに到達すると、フランス軍をラヴィースの方向に押しやった。
最左翼の第5列と第6列を率いるセウレン中佐はペルジーネとレーヴィコ・テルメに進んだ。
ダヴィドウィッチ師団右翼と中央の機動
右翼のラウドン旅団はカディネからフランス軍の前哨部隊を追い出し、ヴェーラ(Vela)で強い抵抗にあったため、ラウドン自身がそこで指揮を執った。
6時間もの戦闘後、ヴェーラを占領し、フランス軍の前哨部隊をピエディカステッロ(Piedicastello)まで追跡した。
フランス軍の前哨部隊はピエディカステッロでサン・ロレンツォ橋に火を付けトレントに後退し、左岸に渡れないラウドンは右岸の川沿いの有利な地点に移動した。
◎ヴォーボワ師団のカッリアーノへの撤退
第2列を率いるオクスカイ将軍は、ヴォーボワが11月3日夜にラヴィースから撤退していたため全く抵抗らしい抵抗も無くトレントへ向かって進軍した。
ヴォーボワは11月4日夜から5日未明にかけてトレントの背後に部隊を集結させ、両側面を圧迫されたためトレントからの撤退を開始した。
ヴォーボワは急いでカッリアーノに向かい、ベセノ(Beseno)城とピエトラ城で防備を固め、アディジェ川右岸のノーミ(Nomi)を占領した。
この11月4日の行動でダヴィドウィッチ師団にそれほど大きな損失は無かった。
ダヴィドウィッチ師団は94人が死傷者及び捕虜となり、ヴォーボワ師団は死傷者は不明だが482人が捕らえられたと言われている。
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