アルコレ戦役 30:ヴォーボワ師団の後退とナポレオンの計画
Battle of Arcole 30

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

ヴォーボワ師団のカステルヌォーヴォへの後退

 1796年11月17日午後、ヴォーボワはカンパラ、ピオヴェッツァーノ(Piovezzano)を経由してブッソレンゴに本部を置き、ピオヴェッツァーノ周辺に散らばった部隊を集結させようとした。

 そして夜にはダヴィドウィッチが17日中には追ってこられないであろうカステルヌォーヴォに到着した。

 ヴォーボワはピオヴェッツァーノに部隊を集結させ、ブッソレンゴに本部を置いたことから初めはヴェローナ方面のフランス軍本体と合流するつもりだったのだろうと考えられる。

 しかしその後にカステルヌォーヴォに移動していることから、この時点でこれ以上戦うことを諦め自身の身の安全を考えてペスキエーラへの後退を決断したのだろう。

◎ヴォーボワ師団のカステルヌォーヴォへの後退

 夜、ダヴィドウィッチはアディジェ川左岸にいるロイス師団にアディジェ川を渡らせ、リヴォリ近くの野営地へ向かわせた。

 2個大隊を率いるルシニャン大佐はキウーサ砦とその周辺地域に移動し、セウレン中佐はラターマン大隊とともにルーゴに移動した。

 その後、ダヴィドウィッチはアルヴィンチからの書簡を受け取った。

 その書簡は17日の朝にアルヴィンチがヴァーゴ(Vago)から送ったものであり、15日と16日に行われた「アルコレの戦い<1日目>と<2日目>」の経過が書かれていた。

 アルコレの戦いの最初の2日間はオーストリア軍側が優勢であり、この書簡はダヴィドウィッチに希望をもたらした。

 ダヴィドウィッチは夜11時までにスポーク将軍にガルダ湖方面を制圧させ、アルヴィンチにリヴォリからこの日の詳細な報告を送った。

 しかしダヴィドウィッチが送った使者は、その後フランス軍によって捕らえられた。

 これにより(恐らく18日午後以降)ボナパルトはチロル軍の位置や編成などの正確な情報を手に入れた。

オージュロー師団の迂回機動とナポレオンによるフリウーリ軍攻撃計画

 11月17日夜、アルヴィンチはヴィチェンツァに向かうためにその途中にあるモンテベッロへの後退を続けていた。

 その頃ボナパルトはアルコレの戦場でヴォーボワ師団の敗北を知り、すぐにチロル軍に兵力を振り向け、ダヴィドウィッチを押し戻すだけでなく可能ならば打ち砕く決意を固めた。

 そしてボールヴォワール騎兵隊に、モンテベッロに向かって後退しているアルヴィンチを追跡させて監視し、オージュロー師団をアディジェ川左岸沿いを進ませてヴェローナに向かうよう暗闇の中を機動させた。

 オージュロー師団の目的はサン・マルティーノとモントリオ(Montorio)を通ってヴァル・パンテナに入り、グレッツァーノとルーゴを通ってサンタ・アンナ(Santa Anna)の高みを征服する。そしてアディジェ渓谷に侵入してペーリとドルチェまで進み、ダヴィドウィッチ師団の後方を衝き退路を遮断することだった。

 ボナパルト自身はロンコでアディジェ川を渡りヴェローナに移動した。

 この時ボナパルトは要塞であるヴェローナをキルメイン指揮下の約3,000人強で防衛し、オージュロー師団でダヴィドウィッチ師団の退路を遮断して撤退を促し、マッセナ師団とヴォーボワ師団を合流させてアルヴィンチへの正面攻撃を行うことを計画していた。

◎「アルコレの戦い」直後のナポレオンによるオーストリア軍分断計画

 恐らくオージュロー師団とペーリの間にはレッシーニ山脈が広がっており距離も離れているため、アルヴィンチが戦闘態勢を整えない内にマッセナ師団とヴォーボワ師団でフリウーリ軍をブレンタ川の背後に追い払い、その後マッセナ師団とヴォーボワ師団は反転してダヴィドウィッチ師団と対峙し、オージュロー師団はチロル軍とフリウーリ軍の間に割り込んで分断しつつダヴィドウィッチ師団の退路を遮断して背後に展開させ、ダヴィドウィッチ師団を完全に包囲するという計画だったのだろう。

 そのため翌18日、マッセナには朝にロンコからアディジェ川を渡りヴィッラノーヴァへ進むよう命じ、敗北したヴォーボワにもヴィッラノーヴァでマッセナ師団と合流するよう命じる書簡を送った。

フリウーリ軍のさらなる後退と態勢の立て直し計画

 11月18日午前3時頃、モンテベッロに到着していたアルヴィンチは、ダヴィドウィッチから「17日にリヴォリを攻撃し、18日もしくは19日にはヴェローナの前に進出できる」旨の連絡を受け取った。

 そして午前5時頃、ダヴィドウィッチにフリウーリ軍の状況を説明する内容の書簡を送った。

 もしボナパルトがチロル軍に主力を振り向けた場合、フリウーリ軍はチロル軍を助けるために全力を尽くすことを約束し、もしフリウーリ軍に主力を振り向けた場合、チロル軍はフランス軍の背後からマントヴァ要塞を救出する可能性を低くしてはならないと考えていることをしたためた。

 18日夜明け前、ダヴィドウィッチの勝利の報告を未だ受け取っていなかったアルヴィンチはモンテベッロからさらに東進しオルモ(Olmo)に向かった。

 この退却はフランス軍に妨害されることはなかった。

 アルコレの戦いに敗北したアルヴィンチはブレンタ渓谷を介して再びダヴィドウィッチとの連絡線を確立し、態勢を立て直してフランス軍と対峙しようとしていたのである。

ヴォーボワ師団のペスキエーラへの撤退

 11月18日明け方、ダヴィドウィッチはオクスカイ師団及びロイス師団とともに前進し、パストレンゴ(Pastrengo)へ向かった。

 2個大隊を持つルシニャン大佐は左岸に残った。

 ヴォーボワ師団はカステルヌォーヴォを引き上げ、ペスキエーラを通りミンチョ川の背後に向かっていた。

 ボナパルトが送った「ヴィッラノーヴァでマッセナ師団と合流せよ」という内容の書簡は間に合わなかった。

 そのため、ボナパルトはヴォーボワ師団がペスキエーラ方向ではなくヴェローナ方向に退却することを望んでいたが、ヴォーボワは師団の安全を考えペスキエーラ方向に退却したのである。

 その後ヴォーボワは書簡を受け取るとボルゲット橋でミンチョ川を渡るためにボルゲットに向かった。

 ヴォーボワ師団は18日夜にはボルゲット橋に向かって前進していた。