アルコレ戦役 31:ダヴィドウィッチ師団のヴェローナへの接近とフリウーリ軍の反転
Battle of Arcole 31

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

ダヴィドウィッチ師団のヴェローナへの接近

 ダヴィドウィッチは本部をピオヴェッツァーノ(Piovezzano)に移し、右翼はコーラ(Cola)を越えてガルダ湖方面に移動させ、左翼はアディジェ川方面を移動させた。

 そしてその前哨部隊をブッソレンゴ、カステルヌオーヴォ、パチェンゴ(Pacengo)に置いた。

 ダヴィドウィッチ師団右翼はペスキエーラ近くまで障害なく進み、左翼はヴェローナ方面に向かった。

 ダヴィドウィッチ視点ではフランス軍本体はヴェローナとロンコ周辺でフリウーリ軍と対峙していると予想され、ヴォーボワ師団はペスキエーラの背後に退却していた。

 そのためボナパルトの側面と後背を脅かして包囲機動を行いつつ、10㎞先のヴァレッジョ、20㎞先のロヴェルベッラまでは妨害されることなく進み、30㎞先のマントヴァで包囲軍と対峙することができると予想された。

 しかしダヴィドウィッチは慎重であり、現在のフリウーリ軍の状況とフランス軍の位置を把握することに努め、パストレンゴに師団の大部分を集結させ、ルシニャン旅団とセウレン旅団のためにドルチェの舟橋を覆った。

◎ダヴィドウィッチ師団のヴェローナへの接近

 ラウドン旅団はティオーネ(Tione)とマレ(Male)周辺におり、スポーク旅団はガルダ湖東岸で強力な分遣隊を率いており、カスティオン、ガルダ、バルドリーノ(Bardolino)に部隊を配置していた。

 そしてバルド山の安全を確保するために2個中隊をカプリーナ峡谷に派遣した。

 その結果、ダヴィドウィッチはパストレンゴ周辺に動員可能な歩兵約10,000人を集結させた。

 11月18日午後、ダヴィドウィッチは偵察からの報告を受け、キルメイン指揮下の約3,000人がヴェローナを防衛していることを知った。

 18日夜10時頃、ダヴィドウィッチは「師団をパストレンゴまで進出させたこと」の報告と「翌朝に何ができるかを見極める」という内容の書かれた書簡をアルヴィンチに送った。

フリウーリ軍の反転

 一方、フリウーリ軍は18日夕方、オルモの野営地に到着し始めていた。

 午後5時頃、アルヴィンチがオルモに到着するとすべての将軍を招集して会議を開き、現有戦力を確認した上で「あらゆる力と手段を駆使してマントヴァ要塞の陥落を阻止する」ことを確認した。

 11月18日時点でのフリウーリ軍の戦闘可能な兵力は、騎兵1,166騎を含む13,226人にミロラッドウィッチ少佐の部隊約3,000人弱を加えた約16,000人だった。

 そして決定は翌朝(19日)に行われることが決まった。

 この時、アルヴィンチは前哨部隊をタヴェルネッレ(Tavernelle)に留め、ミロラドウィッチ少佐の部隊はコローニャからロニーゴへ向かっていた。

◎フリウーリ軍の反転

 しかしフランス軍の姿が見えなくなると反転して再びモンテベッロを経由しトッリ・ディ・コンフィーネ(Torri di Confine)に進み、ホーエンツォレルン将軍率いる前衛部隊はモンテベッロの近くに陣取った。

 フランス軍の姿が見えなくなったことからフランス軍がフリウーリ軍ではなくチロル軍に主力を振り向けた可能性が高いと判断し、チロル軍の支援を行うために前進したのだと推測できる。