アルコレ戦役 09:侵攻作戦の始まり
Battle of Arcole 09

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

侵攻作戦の始まり

 1796年10月中旬から下旬にかけて、アルヴィンチ大将率いるフリウーリ軍は、雨が降る日が続き、川は急になり、道は泥だらけになっているにもかかわらず、ピアーヴェ川を渡りブレンタ川にまで進出しようと軍の編成を行っていた。

 アルヴィンチ将軍は前衛と2列の本体、そして予備を形成した。

 前衛旅団はホーエンツォレルン少将の指揮下で約4,400人を有し4個大隊、7個騎兵中隊で構成されていた。

 プロベラ中将率いる師団は、約17,700人を有し16個大隊、4個騎兵中隊で構成されており、2列に分割されていた。

 1列目はロッセルミニ旅団とリプタイ旅団で構成され、約9,400人を有していた。

 2列目はシュビルツ旅団とブラベック(Brabeck)旅団で構成され、約8,300人を有していた。

 予備軍としてピットーニ少将指揮下で約4,400人を有し、4個大隊、騎兵約150騎で構成されていた。

 フリウーリ軍はその総数26,342人を数えた。

 その他にミトロフスキー旅団がブレンタ渓谷の哨戒とダヴィドウィッチ師団との連絡のために形成されていた。

 数的劣勢であるフランス軍の対抗策の1つとして、マントヴァ要塞の包囲を一時的に薄くしキルメイン師団を加えることも考えられるが、その場合、数日以内にアルヴィンチとの決着をつなければならなくなるだろう。

◎オーストリア軍による侵攻作戦の開始

 10月下旬頃、カスダノウィッチはフォンタナフレッダ(Fontanafredda)におりその前衛をトレヴィーゾに向かわせ、アルヴィンチは10月22日にゴリツィアの野営地から3列で移動し、タリアメント川の東に位置するコドロイポ(Codroipo)に到着した。

 プロベラはオゾッポ(Osoppo)からピンツァーノ(Pinzano)へ進んだ。

 その後、アルヴィンチとプロベラはカスダノウィッチと合流すべくフォンタナフレッダに向かった。

最初の接触とフランス海軍のヴェネツィア湾への派遣

 10月26日、マッセナは、フリウーリのオーストリア軍が遂に動き出し、ピアーヴェ川を渡ってトレヴィーゾ(Trevise)に移動したことをボナパルトに報告した。

 ボナパルトは副官であるケレルマン将軍に騎兵隊を与え攻撃に向かわせた。

 ケレルマン将軍はトレヴィーゾのオーストリア部隊を倒し、何人かの捕虜を得た。

 オーストリア軍のこれらの動きは、大規模な侵攻作戦の前触れであるように見えた。

 この時点までにフランス本国からの増援が到着し、イタリア方面軍の動員可能兵力は38,000人に満たないくらいにまで増加したが、それでもオーストリア軍の侵攻を止めるのに十分な兵力には満たなかった。

 本国から送られた増援は4,000人~5,000人が未だ到着していなかった。

 それらは遠すぎてこれから始まる戦いに貢献できることはできないと考えられた。

 フランス政府からの書簡がボナパルトの元に届き、そこには「チロルとピアーヴェ川を別々に攻撃すること(内線作戦)の提案」、「フランス海軍がヴェネツィア湾に戦隊を派遣してボナパルトのトリエステへの行軍を支援するよう手配したこと」、「トリエステで新たな命令を受け取るだろうこと」が書かれていた。

 ヴェネツィア湾にフランス艦隊が現れた場合、トリエステは目と鼻の先でありオーストリア軍はこれに対応しなければならなくなるのである。

◎フランス海軍によるヴェネツィア湾への進出計画

 フランス政府のこの大胆な行動の背景には、イギリス地中海艦隊を排除し地中海における制海権を手に入れつつあったというフランス政府にとって喜ぶべき事情があった。

 これはボナパルトにとっても喜ぶべきことだったが、イタリア方面軍の動員可能兵力が増えるわけでは無く、結局のところ現兵力でチロル軍及びフリウーリ軍と相対さなければならないことを意味していた。

 フランス海軍が地中海を広く航行できるようになったことを知ったボナパルトは、アドリア海からトリエステに7,000人~8,000人の兵士を派遣することをフランス政府に提案した。

 アルヴィンチ率いるフリウーリ軍の後方を脅かしオーストリア本国との連絡線の1つを遮断することにより、トリエステ方面に兵力を割くか、もしくは撤退するという2択を迫ることを目的としていた。

 政府はボナパルトの戦略を理解していたが、遠征に必要な部隊を時間内に集めることは不可能だったため実行には移されなかった。