リヴォリ戦役 03:4度目のマントヴァ要塞救出計画
Battle of Rivoli 03

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

ラサール大尉の逸話

 ラサール大尉は11月ないし12月からヴィチェンツァのサリ(Sali)侯爵と恋愛関係にあった。

 しかし12月初旬頃からオーストリア軍の圧力が強まり、フランス軍はヴィチェンツァの放棄を余儀なくされた。

 これによりラサールとサリは離れ離れとなった。

 12月16日の夜、ラサールはサリと会うために18騎の騎兵小隊を率いてヴィチェンツァに向かった。

 ラサールはオーストリア軍に見つからないよう慎重に戦線とバッキリオーネ(Bacchiglione)川を越えて小隊を隠し、サリ侯爵の元に駆けつけた。

 そしてオーストリア軍の配置に関する情報を聞いたとき、警鐘が鳴り響いた。

 ラサールは急いでサリ侯爵の元を離れ、隠していた小隊と合流し、バッキリオーネ川を渡るために橋に向かった。

 退却中、近くにいた36騎のオーストリア軽騎兵と戦闘を行って勝利を収め、無事退却に成功した。

 ラサール小隊の損害は4騎であり、オーストリア軽騎兵隊の損害は15騎が戦死もしくは捕虜となったと言われている。

 ラサールはサリ侯爵から得たオーストリア軍の配置に関する情報を総司令官に伝えた。

 1797年1月6日、この功績によりラサールは中隊長に昇進した。

デュマ将軍による尋問

◎1797~1799年頃のデュマ将軍

※ギヨーム・ギヨン=ルティエール(Guillaume Guillon-Lethière)画。
デュマ将軍はフランス貴族と黒人奴隷の子であり優秀な将軍である。ヴァンデミエールの反乱時に総指揮を執るよう召集されたが馬車の故障のため駆け付けることができず、デュマ将軍の代わりとしてナポレオンが推挙されたという出来事があった。

 1796年12月16日、2隻のフランスの平底船がマントヴァ上部湖の要塞近くまで近づき偵察を行った。

 12月11日にヴルムサー宛に送られた皇帝からのメッセージの複写を携えた最初の使者はマントヴァの湖まで到達したが、迎えに来るはずの水夫は現れず、そのため目的を達成することなくチロルに戻ることを余儀なくされた。

 12月21日、12月2日にアラから送られた書簡がマントヴァに届き、「最近、マントヴァ要塞の再度の救出を試みる準備を整えている」ことを伝えた。

 12月22日夜、2人の信頼できる案内人を伴った2番目の使者がマントヴァ要塞の近くに到着した。

 その内の1人は2枚目の皇帝からのメッセージの複写を携えていた。

 しかし運悪く3人ともフランス軍の歩哨に見つかり捕らえられた。

 使者はデュマ将軍によって尋問され、24日までにヴルムサー宛の書簡を奪われた。

 尋問の際、封蝋された書簡を胃に入れたことを疑われ、吐かなければ撃つと脅され、やむなくそれを認めたと言われている。

 これによりデュマは「ヴルムサーがマントヴァを脱出し教皇領方面に逃れる可能性があること」、「アルヴィンチは12月13日時点でトレントにいること」「オーストリア軍は3週間~1ヵ月は動けないこと」を知り、これらの状況が書かれた書簡を25日にボナパルトに送った。

 そしてデュマはポー河方面の防衛を強化した。

4度目のマントヴァ要塞救出計画

 参謀長ヴァイロサー中佐はフリウーリ軍を陽動とし、チロル軍を主力とする攻撃計画を立案していた。

 チロル軍に兵力を集中させることによって単純な兵力差による勝利を目指し、フランス軍をリヴォリから追い出し、ペスキエーラとヴェローナの間の平原を進み、マントヴァを救出する計画だった。

◎4度目のマントヴァ要塞救出計画概要

リヴォリ戦役:4度目となるマントヴァ要塞救出計画概要

 フリウーリ軍の目的はフランス軍を惑わすことであり、もしフリウーリ軍が敗北したとしても主力の活動を妨げるものではなく、ヴァイロサーはアルコレ戦役での失敗(連絡線が長い軍同士の共同作戦の難しさ)を改善していた。

 パドヴァ近くのプロベラ師団はレニャーゴとフランス軍右翼を攻撃し、同時にバヤリッヒ旅団がバッサーノからヴェローナに向かって前進した場合、フランス軍はオーストリア軍が11月のアルコレ戦役と同じ計画を踏襲してきたということを疑うだろう。

 そしてそれらの軍が舟橋用ボートを持っていることを知ったとき、尚更これらの軍隊の自由を許さず、フリウーリ軍が主力であると疑いを深めることになるとヴァイロサーは予想していた。

 そして作戦開始と同時にバッサーノからトレント近くにロイス旅団を呼び寄せ、バッサーノに残ったバヤリッヒ旅団をヴィチェンツァに進ませた場合、オーストリア軍の意図はフランス軍に察知されることは無いと確信していた。

 つまり、フランス軍に察知されないようにバッサーノから兵力をチロルに移動して主力を形成し、バッサーノとパドヴァ周辺からボートを持ってヴェローナとレニャーゴに向かって進軍することによってフランス軍の主力をそちらに向けるように陽動し、その隙にリヴォリを突破してマントヴァを目指す計画だった。

編成の開始とさらなる増強

 12月22日、アルヴィンチは11月末に派遣された増援のほとんどを受け取るとヴァイロサー中佐の立案した計画を実行するために軍の編成を進めた。

 すべての増援は到着しているわけではなかったが、これらの最初の増援だけでは十分では無く、イタリアのオーストリア陸軍の強化のために全体からさらに2,000人を集めるなどして、オーストリア軍はより強力な軍を形成しようとした。

 このようにアルヴィンチは12月末までに完全とはいかないまでも侵攻を再開できる状態を整えることができた。

 両軍、1796年11月の終わりから翌年1月初めまで表立った動きはあまり無かったが、その内部では急ピッチに次の戦いに向けての準備を進めていたのである。