リヴォリ戦役 01:フランス軍の状況と次の戦役に向けての準備
Battle of Rivoli 01

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

アルコレ戦役後のフランス軍の状況

 1796年11月までのアルコレ戦役での疲弊と大きな損失によりフランス軍とオーストリア軍は休息に入り、次の戦いに向けての準備を行った。

◎アルコレ戦役直後の両軍の配置

 多くの将校を失ったマッセナとオージュローは昇進させる候補者リストをボナパルトに提示するよう求められた。

 2将軍はそれに従ったが、オージュローのリストに書かれた人物のみが承認され、マッセナのリストに書かれた人物は承認されなかったように見えたため、マッセナはボナパルトに強く抗議した。

 ボナパルトはマッセナが続けて送った3通の書簡に返信せず、マッセナは不信を募らせた。

 そして12月16日、マッセナのリストの中で昇進が認められたすべての士官の停職が命じられた。

 マッセナはサン・ジョルジュの戦い後の10月10日にかなり強い抗議を行った仕返しだと考え強い屈辱を感じたが、停職が命じられた士官が新たな階級に昇進し24時間後に教育が行われたため勘違いに気づいた。

 恐らく、ボナパルトはアナウンスすること無くオージュロー師団、マッセナ師団の順番で昇進を行ったため、後者は勘違いをしたのだと考えられる。

 マッセナの書簡に返信しなかったのも、行動で示せば分かると思ったか、単に忙しく勘違いに返信する時間すら惜しかったのだろう。

 これ以降、次のオーストリア軍による侵攻作戦の開始を待っている間、マッセナは積極的に軍務に勤しみ、兵士を訓練し、頻繁な偵察や配置の変更などを行い、師団の緊張状態を保った。

 イタリア方面軍はフランス本国から派遣されたいくつかの大隊を半旅団に統合し、幹部の空白を埋めることができた。

 そしてリヴォルノで療養していたセリュリエ将軍をヴォーボワ将軍と交替して呼び戻してマントヴァ要塞包囲軍を指揮させ、、一時的に前線に来たマッカード将軍を後方に戻し、前線及び後方の再構築を行った。

イタリアの情勢とナポレオンによる体制の強化

 一方、フランス政府はオーストリアとの和平条約の締結や周辺国との和平のために動いていた。

 アルコレの戦いが行われている最中の11月16日にクラーク(Clarke)中将をイタリアに派遣し、12月1日にミラノに到着しオーストリア側の担当官であるヴィンセント男爵と1797年1月2日にヴィチェンツァで会談が行われる手筈を整えていた。

 そして休戦中であるトリノ、ナポリ、フィレンツェ、パルマの政府と同盟を結び、とりわけ中でも力のあるトリノ政府にはさらに踏み込んで攻撃的及び防御的な同盟を結ぶことを提案したが断られていた。

 教皇は6月23日の休戦条件の実行を依然として拒否し、ボローニャの目と鼻の先に位置するファエンツァ(Faenza)に教皇軍を集結させていた。

 モデナでは12月初めにルッカ側にあるモデナ領の山岳地帯ガルファニャーナ(Garfagnana)に住む農民がフランシスコ修道会士マッツェーシ(Mazzesi)の扇動によって蜂起し、フランスに敵対していた。

 ヴェネツィア共和国は中立を維持するという名目で戦場とは離れた地域で武装し、市民への略奪や暴行を行うフランス軍に恨みを募らせていた。

 ヴェネツィア共和国の担当者はボナパルトにも訴えたが、フランス軍による略奪や暴行は無いと断言されていた。

 恐らくボナパルトとしては自軍が危機に瀕している中でヴェネツィア共和国に何らかの補償をすることはできないという事情もあったのだろう。

 バッサーノ戦役あたりまではボナパルトも略奪を阻止しようと動いていたが、冬のアルプスを輜重隊が越えることができないからかフランス本国から送られてくる物資では全く足りず、配給業者の横領の追及は頓挫したため、ボナパルトは現地調達という名の略奪を許可せざるを得なかったのである。

※ナポレオンが現地調達を許可した時、デュマ中将がナポレオンに抗議し現地調達の許可を取り消すよう要求した。しかしデュマ中将は自分の信念に従った抗議をするのみでありイタリア方面軍を養うために現地調達以外の実現可能な方策を示さなかった。

 これまで静観していたヴェネツィア共和国もフランス軍の悪行に耐え兼ね、水面下で暴動を扇動した。

 ベルガモで略奪を行うフランス兵が多数殺害される事件が起こり、ヴェネツィア軍が扇動して暴動に発展させたのである。

 その数2,000人強に上った。

 ボナパルトはその事を知るとヒリエ(Hiller)将軍にそれを奇襲しベルガモの城を占領するよう指示した。

 12月24日、ヒリエ将軍は2個歩兵大隊、騎兵300騎、大砲4門を持って平和的にベルガモに近づいて夜襲を仕掛け、これを制圧した。

 モデナの農民反乱も12月末までにルスカ将軍率いる機動部隊が鎮圧し、教皇軍の監視と威圧のためにランヌ旅団約4,000人をボローニャに派遣していた。

◎北イタリアにおける反乱と教皇軍の位置

 このように北イタリアの住民達はフランス軍に反抗しオーストリア軍を支援すると予想されるため、北イタリアにおけるフランス軍は少し状況が逆転しただけで大きな後退を余儀なくされるような不安定な立場だった。

 これもすべてフランス軍の略奪や暴行が横行し何の補償もなされないことが原因だったが、フランス軍に物資は無く、配給業者による横領が蔓延っていたため軍を維持しオーストリア軍に対抗するためには現地調達以外の道が閉ざされていた。

 そのためボナパルトはロンヴァルディアの司令官に平和を維持するための体制を整えるための命令を送った。

 つまり軍事力でこれら住民の不満を押さえつけようとしたのである。

 さらにトルトナとクオネを担当するマッカード将軍とガルニエ将軍に本国との連絡を確保するためのより効果的な措置を講じるよう命じ、ミラノ北に位置する湖群に砲兵連隊を配備し、フェラーラの城塞、ウルバノ砦、ブレシアとベルガモの城、ペスキエーラ、ピッツィゲットーネとカッサーノに小さな守備隊を配置した。

 これらの対応策を行うと、ボナパルトは内政と軍の維持、増強することに専念し、軍と住民からの絶え間ない不満に対応した。

 12月25日以降、ボナパルトはデュマ将軍からの書簡を受け取った。

 そこにはオーストリアの使者を捕らえ、捕らえた経緯と奪った書簡の内容が書かれていた。

 これにより翌年1月初旬から中旬頃までオーストリア軍の侵攻は無い可能性が高いこと、アルヴィンチは12月13日時点でトレントにおり次の侵攻はチロル方面からオーストリア軍主力が進軍してくる可能性が高いこと、マントヴァ駐屯軍はボローニャやフェラーラ方面に脱出しようとしていることなどが判明した。

 ボナパルトは騎兵大隊を4個騎兵中隊に再編成し、馬の購入と徴用により再編成を加速させた。

 そしてさらなる増援をフランス政府に求め、オーストリア軍がチロルとフリウーリから同時に攻撃してくる可能性が高いことを考慮し、海岸から20,000人、ライン方面から30,000人をイタリアに派遣することが決定された。

 しかしこの時点ではイタリア方面への具体的な増援計画は立案されていなかった。

 1796年12月27日、同年10月中旬にモデナ、レッジョ、フェラーラ、ボローニャがチスパダーナ連邦を結成していたが、それを一つの国としてまとめチスパダーナ共和国として建国を宣言し、ナポレオンによる北イタリアの支配体制は徐々に確立されていった。

1796年12月末時点のフランス軍の強度と配置

 マントヴァ要塞包囲軍はセリュリエ将軍が統率し、マルミローロのデュマ将軍、プラデッラのダルマーニュ将軍が率いる2個師団10,230人で構成されていた。

 マッセナ師団は8,851人を擁し、ヴェローナからブッソレンゴまでのアディジェ川沿いに配置され、その前衛はサン・ミケーレに位置した。

 オージュロー師団は8,665人を擁し、レニャーゴを中心とするアディジェ川下流域の防衛任務を行っていた。

 マッセナ師団とオージュロー師団はその後ヴェローナ、ロンコ、レニャーゴに強力な分遣隊を残し、ロヴェルベッラとヴィラフランカの間の平原に集中した。

 ジュベール師団は10,250人を擁し、バルド山のマドンナ・デッラ・コロナ、フェラーラ、ポッツォーネ、サン・マルティーノ、カプリーノ、リヴォリ、カスティリオーネ、ブッソレンゴ、キウーザ砦に配置された。

 レイ師団は4,156人を擁し、ブレシアに一部の兵士を配置し、本部をデゼンツァーノに置き、サロー、ペスキエーラなどガルダ湖西岸とキエーゼ川流域周辺の防衛を担当していた。

 暫定的に中将に昇進したばかりのヴィクトール将軍は歩兵予備隊1,800人を率い、ゴーイトとカステルヌォーヴォに配置されていた。

 ドゥガ将軍は騎兵予備隊658騎を率い、ヴィラフランカに配置されていた。

 その他にランヌ旅団約4,000人がボローニャで野営していた。

 その合計48,610人を数えた。

 そして後方には、クオネ、チェバ、ケラスコにガルニエ(Garnier)師団1,334人、アレクサンドリア、トルトナにマッカード師団1,295人、ミラノ、ピアチェンツァ、ベルガモ、ボローニャにキルメイン師団4,658人、リヴォルノにヴォーボワ師団1,974人、合計9,261人がいた。

 前線の軍と後方の軍を合計した総数は57,871人だった。