リヴォリ戦役 27:アルヴィンチの再始動とフランス軍の前進の開始
Battle of Rivoli 27
リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | リヴォリの戦い:19,000人~22,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門 ラ・ファヴォリータの戦い:不明 |
オーストリア | リヴォリの戦い:約28,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門 |
アルヴィンチによるプロベラ師団及びマントヴァ要塞駐屯軍救出計画
1月16日、アルヴィンチはアーヴィオの本部でプロベラが14日未明にアンジャーリでアディジェ川を通過し、午前中にサングイネットに進んだという報告を受け取った。
そのため要塞自体はともかくプロベラ師団及びマントヴァ要塞駐屯軍を救うための試みをもう一度行うことを決定した。
17日、アルヴィンチは麾下の将軍たちを召集して会議を行い、再び動き出すことが全会一致で決定された。
そしてフランス軍は2日間以上先行していたにもかかわらず、救出作戦が開始された。
◎プロベラ師団及びマントヴァ要塞駐屯軍救出計画
アルヴィンチはアーヴィオに8個大隊、7個騎兵中隊を有するコボロス旅団とヴィッラノーヴァに2個大隊を有するバヤリッヒ旅団にバッサーノで合流するよう命じた。
これらの旅団はバッサーノでの合流後にヴェローナを攻撃し、プロベラ師団とマントヴァにとって有利な変化をもたらすと考えられた。
恐らく、コボロス旅団とバヤリッヒ旅団がヴェローナを占領することにより、ジュベール師団の一部、もしくはマントヴァに向かったフランス軍(マッセナ師団やヴィクトール旅団)などをヴェローナに振り向かせ、目の前のジュベール師団を撃破、もしくはプロベラ師団やマントヴァ要塞駐屯軍の撤退を支援しようとしたのだろうと考えらえる。
ただ、この計画は2日間先行しているフランス軍に追いつかなければならないにも関わらず、アーヴィオから出発してバッサーノで合流し(約90㎞の山道)、その後バッサーノからヴェローナに向かう(約80㎞の平地)という時間がかかるものであり、明らかに間に合わない。
恐らくアルヴィンチはどちらにしてもフリウーリ方面はがら空きであり主力を移動させなければならないと考えていたため、その一環としてこの計画の実行を命令したのだろう。
そしてアルヴィンチはリヴォリの戦いでの敗戦の重圧により体調を崩し、本国に総司令官職を辞することを願い出た。
フランス軍の再編成と再配置
◎ラ・ファヴォリータの戦い後のフランス軍の再配置
1月17日、ボナパルトは本国への戦勝の報告を送り、3ヵ月前に海から10,000人の増援を派遣すると約束していたが、まだ1,800人規模の1個半旅団しか到着しておらず、オーストリア皇帝はまた新しく軍の再編成を行うだろうことを付け加えて増援の到着を催促をした。
そして、その後すぐにヴェローナに向かい、本部を移して采配を振るった。
ボナパルトはジュベール将軍に師団の兵力と調達した食糧の確認して報告するよう命じ、活躍した者のリストを要求し、ジュベールに貸したリヴォリとアディジェ川周辺地図の返却を求めた。
さらにマッセナ師団をヴェローナ方面に向かわせ、オージュロー師団をレニャーゴ周辺に配置するよう命じた。
その際、マントヴァ要塞を包囲しているセリュリエ指揮下のデュマ将軍とマッセナ指揮下でヴェローナの防衛任務を行っているシャボー将軍を交替させている。
レイ師団の指揮を実質的にミュラ将軍に委任して師団をサローに戻らせ、キルメイン将軍とミュラ将軍に捕虜の脱走を防ぐためにブレシア、ベルガモ、コモの北の山岳地帯の要地に部隊を配置するよう命じた。
ランヌ将軍をボローニャに向かわせ、そこで2個騎兵連隊を加えた。
その他、リヴォリ方面、フェラーラ(ポー河南の)方面への再配置を行った。
そしてリヴォリの戦いでオーストリア軍を前にして攻撃を躊躇していたレイ将軍は50騎の護衛とともに捕虜を連行してミラノに向かっていた。
ライン方面からの援軍の派遣
イタリア方面軍の戦勝報告を受け取ったフランス政府は、これまでのライン方面を主軸とした戦略を変更し、対オーストリア戦線の主戦場をイタリア方面に定めた。
そのためボナパルトからの再三に渡る増援の要求に応え、サンブレ・エ・ムース軍からはベルナドット師団約12,000人を派遣し、ライン・モーゼル方面軍からはデルマス(Delmas)師団約9,500人を派遣した。
その他からも多くの増援が送られる計画であり、合計約32,000人がイタリア方面へ向かう手筈となった。
この時、フランス政府は1月18日付の書簡で「戦争を精力的に継続するために2月末までに十分な増援がイタリアに到着する」という約束を新たに行っている。
その後、ベルナドット師団はイタリア方面へ向かうことをカール大公に悟られないようにメッス(Metz)にサンブレ・エ・ムース軍のための予備軍を形成すると見せかけつつリヨンに向かい、デルマスはブザンソン(Besançon)を経由して同じくリヨンに向かった。
マッセナ師団及びオージュロー師団、ヴィクトール師団の前進とレイ将軍の本国への捕虜護送任務
◎フランス軍の前進
1月18日、ボナパルトはジュベールを至急呼び寄せ現状の確認と今後についての協議を行い、ヴィクトール将軍を暫定的に中将に昇進させた。
そしてヴィクトール将軍の師団をボローニャとヴィチェンツァ、パドヴァの中間点に位置するトレチェンタ(Trecenta)に向かわせた。
19日までにオージュローはレニャーゴに師団を集結させ、20日にエステに向かって出発した。
20日、ボナパルトはマッセナ師団にヴィチェンツァに向かうよう命令し、ヴィクトール師団には翌21日にトレチェンタに少数の部隊を残してフェラーラに向かうよう命じた。
そしてカステル・ダーリオで住民がフランス軍の食糧を略奪し、町の職員がそれを持ち出すことを許可したことが発覚し、その懲罰としてカステル・ダーリオの町に80,000フランをイタリア方面軍に寄付するよう課した。
21日、レイ将軍は2,000人の歩兵と騎兵とともにリヴォリの戦いとラ・ファヴォリータの戦いで捕らえた捕虜をミラノからフランスのグルノーブルに護送する任務を与えられた。
この任務は周囲の将軍たちからはリヴォリの戦いで躊躇して積極的に攻撃を仕掛けなかったことへの懲罰的な任務と見られていた。
オージュロー師団は21日夜にはパドヴァの近くまで進軍しており、ローセ(Lorcet)将軍はオーストリア軍の前哨部隊をパドヴァの町に押し戻し、オージュローはヴェネツィアの司令官に町で戦わずに避難するよう要請した。
オーストリアの150騎の分遣隊は夜中にチッタデッラとクルタローロ(Curtarolo)へ撤退した。
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