リヴォリ戦役 28:救出作戦の中止とバッサーノ方面への兵力の集中
Battle of Rivoli 28
リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | リヴォリの戦い:19,000人~22,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門 ラ・ファヴォリータの戦い:不明 |
オーストリア | リヴォリの戦い:約28,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門 |
救出作戦の中止とオーストリア軍左翼の形成
1月18日朝、コボロス旅団がバッサーノに出発する前の段階でプロベラ師団が降伏したという知らせが本部に届いた。
アルヴィンチはヴェローナへの攻撃は断念したが、コボロス旅団とバヤリッヒ旅団のバッサーノでの合流は続行させた。
バッサーノはチロル方面だけではなくフリウーリ方面にも続く重要地点であり、この場所をフランス軍に占領された場合、トレント以北への後退を余儀なくされるのである。
そしてバッサーノに兵力を配置しなければ、フリウーリ方面はがら空きであり、フランス軍は何の抵抗もなくその先のケルンテン方面にまで進軍してくることは目に見えていた。
その後、コボロス旅団の7個騎兵中隊はヴァルスガーナを通るルートでバッサーノに向かわせ、コボロス自身は8個大隊とともにアスティコ渓谷(Val d'Astico)を通るルートでバッサーノに向かって出発した。
◎1797年1月20日時点での両軍のおおよその位置関係
ルシニャン旅団所属の兵士は16日時点でサン・マルコに130人しかおらず、ルシニャン大佐も不在だった。
しかし17日にルシニャン大佐が帰還し、18日には1,800人が大佐の周りに集結していた。
ラウドンはカッファーロ、ストロ、レドロ湖の谷に前哨部隊を配置し、ティオーネとクレス(Cles)に戻った。
バヤリッヒ将軍はヴィッラノーヴァの2個大隊に2個軽騎兵小隊を加え17日にバッサーノに向かって出発した。
バヤリッヒ旅団所属のアウグスティネッツ大佐率いる4個大隊はレッシーニ山脈を出てアディジェ川のほとりにあるオッセニゴ近郊に移動していた。
アルヴィンチはベッルーノの舟橋を解体し、アーヴィオとヴォの間に舟橋を再建した。
そして20日、ロヴェレトに本部を移した。
同日、バヤリッヒ将軍はバッサーノに到着し、ブレンタ川沿岸に配置した前哨部隊を回収し、パドヴァとエステに対して偵察部隊(1個騎兵中隊)を派遣した。
偵察部隊は、ブレンタ川沿いにあるフォンタニーヴァを初め、チッタデッラ、カンポ・サン・ピエーロ、カッペッラ(Cappella)の町を偵察した後、21日にパドヴァに到着した。
バヤリッヒ将軍の部隊はバッサーノに向かって行軍していたコボロス将軍の指揮下に置かれた。
4個大隊、1個騎兵中隊を有するミトロフスキー旅団はボルゴ・ヴァルスガーナを維持していたが、この旅団もコボロス将軍の指揮下に置かれた。
チッタデッラには分遣隊を置き、フォンタニーヴァには歩兵450人と少数の騎兵を配置し、バッサーノには2個大隊を有するバヤリッヒ旅団がいた。
21日夜の時点でオージュロー師団はすでにパドヴァに近づいていた。
そのためヴァルスガーナを通ってバッサーノに到着した騎兵の内、4個騎兵中隊がパドヴァとトレヴィーゾの中間点に位置するノアーレ(Noale)に、1個騎兵中隊がチッタデッラに派遣された。
密偵からのフランス機密情報の入手
1月21日、アルヴィンチは密偵からフランス軍の計画についての内部情報を受け取った。
「ボナパルトはオーストリア軍を追撃するために公然と各師団に出撃命令を下し、ジュベール師団はアディジェ川を遡ってアーヴィオに向かい、マッセナ師団はヴィチェンツァ、オージュロー師団はパドヴァに向かう。マッセナ師団とオージュロー師団はバッサーノで合流し、ヴァルスガーナ方面とフリウーリ方面に分かれて進軍する。」という内容の情報だった。
そして密偵はその他に、「ボナパルト自身は、同時に12,000人で教皇領への遠征を望んでおり、ヴェネツィア共和国に船を要請しトリエステ港への攻撃を行うよう要請した。」との内部情報を伝えた。
実際のところボナパルトは確かに教皇領への遠征を望んでいたが、12,000人ではなく、トリエステ港への攻撃をフランス政府に要請していたがヴェネツィア共和国に船を要請したわけではなかった。
22日、アルヴィンチは教皇領はともかくオーストリアの国境を防衛するために麾下の将軍達を召集し、会議を開き、各列の兵力と配置の確認が行われた。
この時点でアルヴィンチにマントヴァ要塞を救出する力は無く、マントヴァ要塞は見捨てられた。
1797年1月22日に行われた会議時点でのオーストリア軍の強度と配置
◎1797年1月22日時点でのオーストリア軍の強度と配置
ビカソヴィッチ将軍は3個大隊、2個中隊、2個騎兵中隊、計3,146人(騎兵251騎を含む)を有し、アラとペーリの間のアディジェ川左岸側にいた。
ロイス将軍は8個大隊、3個中隊、2個騎兵中隊、計3,001人(騎兵142騎を含む)を有し、ビカソヴィッチ旅団の後ろロヴェレトとアラの間に予備を形成していた。
ゼッケンドルフ将軍は3個大隊、6個中隊、4個騎兵中隊、計2,388人(騎兵390騎を含む)を有し、アディジェ川右岸側のモーリとベッルーノの間にいた。
オクスカイ将軍はバルド山のブレントーニコ、ガルダ湖北岸のリーヴァとトルボレを9個大隊4,942人で防衛していた。
ラウドン将軍は2個大隊、4個中隊、1個騎兵中隊、計1,192人(騎兵133騎を含む)を有し、ティオーネとクレス(Cles)にいた。
フォアアールベルク(Vorarlberg)州の防衛任務を一任されていたグラッフェン旅団は約半数の10個中隊約1,000人をエルシュ(Ersch)に送り、グラッフェン将軍自身は8個中隊、1個騎兵中隊、計1,102人(騎兵144騎を含む)を有しボーデン湖東端に位置するブレゲンツ(Bregenz)にいた。
これらオーストリア軍右翼はカスダノウィッチ将軍の指揮下に置かれ、合計歩兵15,711人、騎兵1,060騎だった。
オーストリア軍左翼はコボロス将軍が指揮し、歩兵13,084人、騎兵1,290騎を有していた。
オーストリア軍全軍は歩兵28,795人、騎兵2,350騎、合計31,145人だった。
ブレンタ平原への兵力集中の決定
会議では、この兵力でアドリア海沿岸からティオーネまでを防衛するには不十分であると認識され、要地を防衛するのみとなることが考えられた。
しかし、チロルでは民兵で構成されたチロル狩猟部隊10,000人がライフルで武装し、緊急招集にも応じられる準備が整えられていた。
そしてチロル方面での食糧の確保は困難を極め、このような厳しい季節にジュベール師団が進軍することは容易ではなく、もし進軍してきたとしても、守りやすく攻めにくい地形のため撃退可能であると考えられた。
一方、フリウーリ方面は食糧も確保し易く、平坦な地形であるため進軍もし易いためフランス軍は容易にトリエステや内オーストリアへ進出できると考えられた。
そのためアルヴィンチは兵力の多くをブレンタの平原に振り向けることを決定した。
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