リヴォリ戦役 18:ジュベール将軍による追撃とナポレオンのマントヴァへの急行
Battle of Rivoli 18
リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | リヴォリの戦い:19,000人~22,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門 ラ・ファヴォリータの戦い:不明 |
オーストリア | リヴォリの戦い:約28,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門 |
マントヴァへの急行
ボナパルトはジュベール将軍にレイ師団を指揮下に加え、オーストリア軍を精力的に追撃するよう命じた。
アルヴィンチがリヴォリで打ちのめされている間、ボナパルトはアディジェ川下流域から大砲の音が轟いてきたことを知った。
前日の13日夜11時にプロベラが遂に動き出し、アディジェ川を通過しオージュロー師団と戦闘状態に入ったのである。
ボナパルトはすぐにマントヴァ方面へ向かいたかったが、オーストリア軍が動き出したためその対応に追われ、オージュロー将軍からの連絡を待つことにした。
14日夕方、アルヴィンチはピポロ山での延々と続く砲火によってルシニャンがフランス軍の後方に到着したことに気付いた。
そしてロイス旅団をブレンティーノとリヴァルタへ退却させ、第1列のガルダ湖方面及び第2列への撤退を容易にするために急いで主力軍中央の態勢を立て直し反撃を行った。
フランス軍は押し戻され、サン・マルコ礼拝堂、サン・マルティーノを失った。
14日夜、ボナパルトはサン・マルコ礼拝堂を奪還するようヴィアル将軍に命じた。
ヴィアル将軍はオーストリア軍が眠りにつこうとしているところを攻撃し礼拝堂の奪還に成功した。
そこへヴィクトール将軍が第57半旅団とともにリヴォリに到着した。
ボナパルトはオージュローからの連絡を待っていたが、日付が変わっても本部に連絡が無かったためオージュロー師団との連絡が遮断されたと考えた。
同時にバヤリッヒがヴェローナを脅かしているとの報告があったため、ボナパルトはマッセナにバヤリッヒの動きを監視するために3個騎兵連隊とともにすぐにリヴォリを去るよう命じた。
◎マントヴァへの急行
その後、ボナパルトは第57、第18、第32、第75(到着したばかりのヴィクトール旅団とマッセナ師団の3個半旅団)の4個半旅団に翌日の夜明けにカステルヌォーヴォに出発するよう命じた。
カステル・ダーリオから約60㎞の道程を歩きリヴォリに到着したばかりのヴィクトール旅団はすぐに休息に入り、翌朝の出発に備えた。
夜明け前、ボナパルトはジュベールに司令部が所有するリヴォリとアディジェ川周辺の地図を貸し、これらの半旅団の出発とともにカステルヌォーヴォに出発した。
ラサール中隊長とナポレオンの逸話
◎リヴォリの戦いのラサール騎兵中隊長
※ヴィクトール・ウェン(Victor Huen)作。
山を駆け上がっているような雰囲気であることから、ラサールが騎兵50騎を率い、ヴィアル旅団を追っているオクスカイ旅団の前に突然現れてオクスカイ旅団を敗走させた場面だと思われる。
ヴィチェンツァのサリ侯爵との逢瀬により重要な情報を得て中隊長に昇進したラサールはリヴォリの戦い<1日目>で大きな活躍を見せた。
オーストリア軍から奪った軍旗11旈の内5旈はラサール中隊長が奪ったものだった。
この日の戦いが終わるとナポレオンは5旈の旗を積み上げ、疲れ果ててよろめいているラサールにそれを見せ、「その上に横たわって構わない、ラサール、あなたはそれに値する活躍を見せた!(Couche-toi dessus, Lasalle, tu l'as bien mérité !)」と言ったと言われている。
ただ、この逸話が事実かどうかは定かではない。
ルシニャン旅団の退却行とラウドン旅団の状況
ほとんどの兵を失ったルシニャン大佐はペッツェナに到着したが、ペッツェナ村とその東のカプリーノ村にフランス軍がすぐそばまで近づいてきていることに気付いた。
そのためルシニャンは西に向かいモンターニャ(Montagna)を経由するルートでトッリ(Torri)に行き、そこからガルダ湖東岸沿いを北上してマルチェジネに向かおうとした。
しかし、夜中、ルシニャンはトッリにフランス軍がいるのを発見した。
ミュラ将軍が第12軽歩兵半旅団を率いサローからボートで上陸し、ガルダとトッリを占領していたのである。
そのためルシニャンには雪をかき分けてバルド山の頂上への道を切り開いて撤退することしか残されていないように見えた。
ルシニャンはバルド山の頂上への行軍を開始し、打ち減らされたルシニャン旅団の兵士達は40時間何も口にしておらず、1月の夜空の下、風が吹きすさぶ高山の木のない雪の上での退却行を続けなければならなかった。
1月14日夜、ミュラ将軍は命令を受け、モンターニャを経由してバルド山の頂上に向かって第12軽半旅団と共にトッリ(Torri)から行進した。
夜中にポゼッラ(Posella)に到着し、1月15日の夜明けに山を抜けてマドンナ・デッラ・コロナまで行進を続けた。
ルシニャン旅団の兵士たちは極度の疲労に体力も精神力も消耗し、多くは途中で停泊し、それ以上動くことも動かすこともできず、後から追跡してきたフランス軍に捕らえられた。
1月14日、ラウドンは200人の歩兵と30頭の馬を持つ分遣隊をヴェストーネ(Vestone)に派遣して偵察を行った。そして、ラウドン将軍は旅団の弱さのためにこれ以上の行軍はできなかった。
バヤリッヒ旅団はこの日、ヴィッラノーヴァに留まった。
バヤリッヒ旅団のヴェローナへの前進と撤退
1月14日夜~15日未明にかけて、バヤリッヒ将軍は確かにヴィッラノーヴァを出発しヴェローナに向かって移動した。
しかし、主力軍が敗北してチロルに向かったことを知ったバヤリッヒ旅団右翼を率いるアウグスティネッツ大佐はレッシーニ山脈中の4個大隊をアルチェナゴ(Alcenago)とスタッラヴェナ(Stallavena)に撤退させた。
そして同様にバヤリッヒもヴィッラノーヴァに戻った。
マッセナはヴェローナの状況を確認すると3個騎兵連隊とともにヴィラフランカに向かった。
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