リヴォリ戦役 02:オーストリア軍の状況と次の戦いに向けての準備
Battle of Rivoli 02

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

アルコレ戦役直後のオーストリア軍の強度と配置

 1796年11月末時点でのオーストリア軍の数と配置は、フリウーリ軍側ではパドヴァ近くのブレンタ川の背後に左翼プロベラ師団約6,000人、バッサーノに中央カスダノウィッチ師団約8,000人、ヴァルスガーナに右翼ミトロフスキー旅団約2,000人が配置されていた。

◎アルコレ戦役直後の両軍の配置

 チロル軍側では、アルヴィンチ将軍は全軍の本部をロヴェレトに置いていた。

 チロル軍の中央は4列に分かれており、アラ周辺に前衛ビカソヴィッチ旅団4,264人、サン・マルコ周辺にビカソヴィッチ旅団の支援としてロイス旅団1,483人、ロヴェレトに後衛ヴァイデンフェルト旅団2,263人、その他に1個大隊544人がトレントに配置されていた。

 左翼スポーク旅団2,373人はレーヴィコ・テルメ周辺に配置され、ヴェネツィアへと続く山道の監視を行い、ヴァルスガーナのフリウーリ軍右翼との連絡を維持していた。

 アディジェ川右岸側のモーリ、リーヴァ、バルド山北側周辺に右翼オクスカイ旅団3,978人、トレントの西側一帯をラウドン旅団2,340人が配置されていた。

 後方にはグラッフェン旅団1,848人が配置されており、チロル軍はその数19,093人を擁していた。

 オーストリア軍の総数はおよそ35,093人を数えた。

12月中旬までのオーストリア軍の動向

 アルコレ戦役での敗北による損失を回復させるためにウィーン政府はあらゆる手段を駆使した。

 11月末にハンガリーとドイツ方面軍から6,000人が派遣され、さらにウィーンの志願兵約1,000人、ハンガリー連隊、及びグラディスカ(現在のBurgenland州)の大隊が派遣された。

 本国からの増援の到着を待つ間、アルヴィンチは軍の回復のための様々な手配をし、マントヴァ要塞に立て籠もるヴルムサー元帥とも連絡を取り合った。

 1796年12月4日、信頼できる者に託されたアルヴィンチからの書簡がヴルムサーの元へ届いた。

 それは11月28日にロヴェレトから送ったものであり、11月24日、モンテベッロと付されているそれはチロルとブレンタ川への撤退に関するものだったが、この書簡の最後に書かれていた「マントヴァ要塞を救出するためのありとあらゆる試みを再度強化する」という一節はヴルムサーに漠然とした希望を持たせた。

 12月5日、アルヴィンチの元にオーストリア皇帝からの書簡が届いた。

 その内容はマントヴァ要塞に関わるものであり、アルヴィンチはヴルムサーにこの内容を伝えることを託された。

 12月8日、アルヴィンチの元にヴルムサーからの書簡が届けられた。

 マントヴァから届いた書簡はマントヴァ要塞の陥落が間近であることを暗に示唆しており、アルヴィンチに軍の強化と再編成を急がせた。

 アルヴィンチが受け取ったヴルムサーからの書簡には、「11月23日に行った出撃の失敗の報告」、「食糧などの物資の不足」、「死亡率の高さ」について言及され、再度の救出作戦を切望する旨が書かれていた。

 同日、マントヴァ周辺の湖が氷で覆われ始め、フランス軍はオーストリア軍が氷上を歩いて出撃してくることを防ぐために多数の砲弾を湖に向かって発射した。

 12月11日、アルヴィンチはトレントから、12月5日に皇帝から届いた命令を複写してマントヴァに送った。

 皇帝はマントヴァ要塞を可能な限り防衛することを望んでおり、救援軍の到来前に要塞内の食糧が尽きた場合、要塞を放棄し動員可能な兵を連れてマントヴァの包囲を突破し、ポー河を渡りフェラーラもしくはボローニャ周辺に留まる。そして必要とあらばトスカーナやローマに助けを求めることをヴルムサーに要請していた。

 12月13日、アルヴィンチはこの書簡の複写を再び作成し、「軍の状況とその強化のために3週間~1ヵ月以内に新たな作戦を実行することはできないこと」を付け加えたこの書簡は12月15日にマントヴァに発送された。

 アルヴィンチはマントヴァ要塞救出のために尽力し、侵攻できる態勢を整えるためにウィーン政府と協力し、軍の強化を急いだ。

 12月13日時点のフリウーリ軍とチロル軍の強度は以下の通りである。

 カスダノウィッチ将軍率いるフリウーリ軍は26個半大隊、13個半騎兵中隊で構成され、歩兵18,870人、騎兵1,454騎、計20,641人を有した。

 ダヴィドウィッチ将軍率いるチロル軍は26個半大隊、10個半騎兵中隊で構成され、歩兵18,145人、騎兵1,103騎、計19,248人を有し、フリウーリ軍と合計するとその総数39,889人となった。

 およそ半月で約4,500人の増援が到着し、特にフリウーリ軍は大幅にその戦力を回復させていた。

オーストリア軍による後方支援の強化と侵攻準備

 冬の厳しさはチロル軍において特に大きな障害となっており、侵攻の際には多くの雪山を越えなければならないことが予想された。

 しかし、これらの雪山とアディジェ川の右岸を手に入れなければ、マントヴァ要塞救出作戦は不可能に思われた。

 ウィーン政府は、後方支援を回復・増強するためにもあらゆる手段を駆使した。

 捕虜となって帰還した者や入院した者の軍への再入隊を早め、脱走兵や逃亡兵に関しても皇帝が布告を出して寛大に迎え入れられた。

 軍は700頭の馬に引かれた多くの荷馬車を受け取り、穀物と小麦粉の膨大な貯蔵庫が後方に形成され、4,000頭の牛が軍を行進させるために送られた。

 そして衣類も支給され、チロル軍とフリウーリ軍に11月30日から12月14日までの2週間で12,000着以上のコート、同じ数のスカート86,000着のズボン、55,000着のシャツ、25,000個の帽子、36,000組のゲートル、86,000足の靴などがウィーンから送られた。

 さらに当時、武器は遠く離れたオーストリアの州で作られ運ばれていたため前線に到着するまでに長い時間を必要としたが、それを改善するために武器庫や武器工房がフリウーリ州の後方に位置するクラーゲンフルトに設立された。

 武器庫には13,000丁のマスケット銃が保管され、武器工房から毎月1,500丁が配送されることになっていた。

 不足していた舟橋用のボートも21隻がチロルに、30隻がポンテッバ(Pontebba)に到着した。

 チロル側でもオーストリア軍の強化が行われており、アルヴィンチはチロル州と合意してチロル民兵を10,000人に増員し、一斉に徴兵を行った。

 チロル州はさらに労働者やアディジェ川を利用して輸送するための数隻の有人ボート及び5,000個の柵をチロル軍に提供した。

 その他、山岳地帯の行軍のための荷運び用の動物も不足していたため早急な到着が望まれた。