リヴォリ戦役 26:マッセナ師団の行軍速度と「勝利の申し子」の異名
Battle of Rivoli 26

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

リヴォリの戦い及びラ・ファヴォリータの戦いにおける両軍の損害

 プロベラ師団は約7,000人が死傷もしくは捕虜となり、22門の大砲と19隻のボートを失った。

 バヤリッヒ旅団は約1,200人を失ったと推定され、主力軍は14,000人~15,000人(行軍中に失われたと考えられる2,000人~3,000人を含む)を失った。

 これらの損害の中には行方不明者が約5,000人はいると考えられ、実際の損失は主力軍、バヤリッヒ旅団、プロベラ師団を合計して17,200人~18,200人と推計される。

 行方不明者はその後、それぞれの道を通って軍に合流するだろう。

 戦いが始まる前のオーストリア軍の総数は49,049人であり、ラ・ファヴォリータの戦い後のオーストリア軍の総数31,000人~32,000人ほどだと推計できる。

 対するフランス軍側の死傷者と捕虜などの合計数は不明であるが、リヴォリの戦い<1日目>では約3,200人と言われており、少なくともそれ以上であり、リヴォリのの戦い<2日目>やラ・ファヴォリータの戦いも圧倒的勝利を収めていることから、10,000人は下回るのではないかと考えられる。

勝利の申し子

◎マッセナ師団の移動距離

l'enfant cheri de la victoire

 ボナパルトはマッセナやオージュローなどの将軍達や第4、第18、第32、第57半旅団の兵士達に向かって叫んだ。

 「ローマ軍は1日に24マイル(約38.6㎞)を移動した。我々の旅団は30マイル(約48.3㎞)を移動し、その間にも戦った!」

 そしてこの瞬間にマッセナに「勝利の申し子(l'enfant cheri de la victoire)、直訳:勝利に最も愛された子」の異名を与えた。

 実際マッセナ師団は13日夜にヴェローナ近郊から出発して約30㎞離れているリヴォリに14日午前11時に到着している。

 そして15日夜明け前にリヴォリを出発し、カステルヌォーヴォとヴィラフランカを経由して15日夜8時にはその一部がロヴェルベッラに到着し、16日のラ・ファヴォリータの戦いに間に合っている。

 リヴォリからカステルヌォーヴォとヴィラフランカ、そしてロヴェルベッラを経由してマントヴァへは約50㎞の距離がある。

 マッセナ師団の行軍速度がどれほど驚異的なものなのかが分かる。

参考①:マッセナ師団の行軍を箱根駅伝で例えた場合のイメージ

◎箱根駅伝で例えた場合のイメージ

リヴォリ戦役:マッセナ師団の行軍を箱根駅伝で例えた場合のイメージ

 箱根駅伝で例えると、東京駅付近の読売新聞社前から横浜駅を過ぎた辺りまで(約30㎞)徒歩で行って横浜駅の先で戦い、そこから小田原城付近まで(約50㎞)徒歩で行き小田原城周辺で戦うようなものである。

参考②:羽柴秀吉の「中国大返し(備中大返し)」

◎「中国大返し(備中大返し)」概要図

羽柴秀吉の「中国大返し(備中大返し)」概要図

 日本で最も有名だと考えられる行軍事例としては「秀吉の中国大返し」が挙げられるだろう。

 マッセナ師団の行軍は敵の伏兵などをほとんど気にせず行軍できたのに対し、姫路城以降の秀吉は、明智方の伏兵を警戒し、明智方だと考えられる城を落とし、情報戦により敵を探り味方を増やしながらの行軍だった。

 そして、マッセナ師団の行軍はほぼ平地であるのに対し、秀吉は道幅が狭くアップダウンのある山地を通過し川を何本も渡っている(最低でも8本)という違いはある。

 「山崎の戦い」は古来「天王山の戦い」と呼ばれており、「山崎の戦い」は現代の呼び名である。

リヴォリ及びラ・ファヴォリータの戦いの後

 ボナパルトにとってもはやオーストリア軍は脅威ではなくなっていた。

 アルヴィンチの兵力はフランス軍を下回り、意気消沈していた。

 マントヴァ要塞への救援の望みは絶たれ、陥落は間近であり、要塞駐屯軍が出撃する力はもう失われているだろうと考えられた。

 そのためボナパルトは後顧の憂いを断つために休戦協定を守らず策動し続けている教皇領に対する遠征を計画し、同時に各師団にオーストリア軍の残党を追い込むための休息を与えた。

取り残されたルシニャン大佐の脱出

 1月16日夜、廃城に潜伏していたルシニャン大佐に、遂に脱出の機会が訪れた。

 大佐とその部下は船でガルダ湖を渡って脱出した。

 ルシニャン大佐一行は1月17日の午後にトルボレの近くに上陸し、夕方にロヴェレトの南に位置するサン・マルコに到着した。

 そしてサン・マルコでバルド山を越えて救助されたルシニャン旅団所属のの16人の将校、100人の武装した兵士、及び160人の非武装の兵士を発見した。