リヴォリ戦役 34:チロル軍のカッリアーノへの後退とジュベール師団のロヴェレトの占領
Rivoli Campaign 34

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

コボロス将軍による再配置

 1月28日、コボロス将軍はコネリアーノ(Conegliano)に進軍し、ピアーヴェ川周辺にいるオーストリア軍全て(コボロス旅団とバヤリッヒ旅団)の指揮を執った。

 そしてフェルトレ周辺に送られていたバヤリッヒ旅団の別動隊はロイス旅団が進出してきたためピアーヴェ川周辺に呼び戻された。

 これによりバヤリッヒ旅団と合流したコボロス旅団はピアーヴェ川周辺に9個大隊、6個騎兵中隊を有するようになった。

 4つの前哨部隊がネルヴェーザ(Nervesa)からヴィドール(Vidor)までに配置され、1個半騎兵中隊がトレヴィーゾへの道路上に配置された。

 これらの背後にはロヴァディナの2個大隊があり、残りの7個大隊は左岸側で防御を固めていた。

 そしてフランス軍を監視する目的で2個騎兵中隊もピアーヴェ川の左岸側に配置された。

アルヴィンチのロヴェレトへの到着とチロル軍のカッリアーノへの後退の決定

 1月28日午前10時頃、ジュベールはビカソヴィッチ将軍が防衛するセッラヴァッレの陣地を正面と側面から2度目となる攻撃を行った。

 ビカソヴィッチ将軍は強力に防御したため、正午までにジュベールは攻撃を断念し、一方で右岸の部隊を強化した。

 ジュベールはヴィアル将軍にラヴァッツォーネのドラー大佐の陣地を非常に険しい山道を通り2個半旅団で包囲させた。

 ドラー大佐はラヴァッツォーネの放棄を余儀なくされ、このようにしてフランス軍はセラヴァッレの陣地の右側面も獲得した。

◎チロル軍のカッリアーノへの後退

リヴォリ戦役:1797年1月28日夜、チロル軍のカッリアーノへの後退

 午後、アルヴィンチはロヴェレトに到着し、会議を開いた。

 そこでカッリアーノへの後退が決定された。

 夕方に向かって、ラウドン将軍はロヴェレトに後衛部隊を残してカッリアーノへ後退し、ビカソヴィッチ将軍はセッラヴァッレから後退し、カッリアーノへ向かった。

 アルヴィンチはトレントに向かい、コボロス将軍に「全力を尽くしてピアーヴェの陣地を守るように」という緊急命令を発した。

 コボロス将軍は自旅団とバヤリッヒ旅団に加え、フェルトレ周辺のロイス旅団を使用することができ、数的優位なフランス軍によってヴァルスガーナから追い出された場合のみミトロフスキー旅団も使用できた。

 ミトロフスキー旅団の主力はコヴォロ砦周辺におりチズモーンに対して展開され、一部はボルゴに配置されセッテ・コムニに対して展開されていた。

 しかしミトロフスキー将軍は急に体調を崩し、麾下の大佐にその指揮権を移譲した。

ジュベール師団によるロヴェレトの占領

 1月29日、トレントのアルヴィンチはロイス将軍に1個大隊をフェルトレに残し、旅団の残りとともにピアーヴェ川を守るコボロス将軍の元に向かうよう命じた。

 そしてアルヴィンチはボルツァーノ(Bolzano)に向かった。

 29日朝、アディジェ川左岸側ではビカソヴィッチ将軍がピエトラ城を占領し、右岸側ではノーミ(Nomi)に前哨部隊を配置し、ドラー大佐、ビアンキ大佐、ウォルフ大佐の部隊がノーミ(Nomi)の後ろに位置するポンタラ(Potara)高原に部隊を集結させ防衛態勢を整えていた。

 右翼をカバーするために、サルカ(Sarca)川のサン・マルティーノ(San Martino)に ウォルフ大佐指揮下の150 名が配置され、左翼を支援するためにフォルガリーア(Folgaria)村に4個中隊が配置された。

 後者は、ヴァルスガーナのミトロフスキー旅団との連絡を維持するためのものだった。/p>

 ラウドンの後衛は、ロヴェレトとモーリで依然として強力な位置を占めていた。

 しかし午前中、ラウドンの後衛はフランス軍によって追い出され、ロヴェレトを失った。

 ベリヤード(Beliard)将軍はそのまま前進しラウドンの後衛をカッリアーノまで後退させ、ヴィアル将軍は右岸側を移動した。

 ヴィアル旅団はノーミのオーストリアの前哨部隊をポンタラの塹壕に押し戻し、包囲されることを回避するためにウォルフ大佐指揮下の150人の分遣隊をサン・マルティーノから追い出した。