リヴォリ戦役 33:アルヴィンチのトレントへの帰還とチロル軍の危機
Rivoli Campaign 33

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

アルヴィンチのトレントへの帰還

 1月26日朝、トレントからヴァル・スガーナを通るバッサーノへの道中で、アルヴィンチは、1月26日未明のコボロス将軍の報告を受け取った。

 アルヴィンチはすぐにコボロス将軍に自旅団とミトロフスキー旅団でバッサーノに戻るよう返信した。

 しかしこの命令は実行されることは無かった。

 恐らく、ミトロフスキー旅団がマッセナ師団に追われていたためだろう。

 この時、アルヴィンチには2つの選択肢があった。

 1つ目は、プリモラーノやコヴォロ砦周辺で戦いピアーヴェ川でコボロス旅団と合流する方法。

 2つ目は、戦いを避け、コボロス旅団と合流できる旅団のみをピアーヴェ川方面に向かわせ、残りはチロルに引き返し大回りでピアーヴェ川で合流する方法である。

 プリモラーノに到着したアルヴィンチの選択は2つ目だった。

 アルヴィンチはマッセナとの戦いを避けてブレンタ渓谷の防御を諦め、ピアーヴェ川方面の防御の強化を考えたのである。

◎アルヴィンチの選択

リヴォリ戦役:1797年1月26日、アルヴィンチの選択

 この決断はトレント方面の一部強化につながったが、ピアーヴェ川方面での作戦は後手に回ることを意味していた。

 午前11時、アルヴィンチはロイス将軍にフェルトレに向かい翌27日に到着するよう命じた。

 ロイス将軍はすぐに準備を行い旅団とともにフェルトレに向かった。

 その後アルヴィンチは再編成を行ってオクスカイ旅団所属の2個大隊でミトロフスキー旅団を強化してヴァルスガーナの防衛を命じ、残りの軍をオクスカイ旅団、ホーエンツォレルン旅団、ゼッケンドルフ旅団の3つに分割し、翌27日にトレントへの帰路に就いた。

 アルヴィンチとしてはその後、ボルツァーノ(Bolzano)を経由し、プステリア渓谷を通り、北カリンシアのフィラハ(Villach)を経由して、強行軍でフリウーリの国境を勝ち取ることを計画していた。

チロル軍の後退の開始

 1月27日、バルド山中を進んでいたヴィアル旅団はサン・ヴァレンティーノに到着し2つの塹壕を攻撃して占領した。

 ラウドン将軍はサン・ヴァレンティーノ襲撃の報を聞くとすぐに900人の兵士を派遣したが、間に合わなかった。

 そのため兵士達はラウドン将軍の元に帰還した。

 サン・ヴァレンティーノを失ったことで、ドラー大佐が指揮する1個大隊、1個騎兵中隊が占領していたキッツォーラは左右をフランス軍に挟まれる形となった。

 もしヴィアル旅団がそのままブレントーニコ、モーリと前進した場合、ドラー旅団は退路を失ってしまう。

 そのためドラー大佐は、夜中にラヴァッツォーネ(Ravazzone)の陣地に戻るよう命令を受けた。

◎チロル軍の後退の開始

リヴォリ戦役:1797年1月27日、チロル軍の後退の開始

 そして、その右側面をカバーするためにウォルフ大佐がサン・フェリーチェを占領し、ビアンキ大佐はリーヴァとトルボレから部隊を退避させ、トブリーノ湖(Lago di Toblino)の北端にあるサン・マッセンツァ(San Massenza)に後退するよう命じられたが、ナーゴ(Nago)には3個中隊を留めておくよう命じられた。

チロル軍の危機とオーストリア軍左翼の状況

 1月27日、トレントへの帰還途中、アルヴィンチはラウドン将軍からの書簡を受け取った。

 そこには「敵がサン・ヴァレンティーノ近くのバルド山の塹壕を襲撃したこと」、「キッツォーラとセッラヴァッレの陣地も退避しなければならなくなったこと」、「ロヴェレト経由でカッリアーノへの撤退を考えていること」が書かれていた。

 アルヴィンチはヴァルスガーナの部隊(ミトロフスキー旅団)の一部をトレントに帰還させ、カッリアーノの陣地の両側面、特に右側面を確保するため、翌28日に自らカッリアーノに向かうことを決定した。

 同日、バヤリッヒ将軍はピアーヴェ川の野営地にいた。

 コボロス旅団の前衛である2個大隊がカンパーナに到着し、バヤリッヒ旅団との合流を果たした。

◎1797年1月27日時点でのオーストリア軍左翼の強度と配置

リヴォリ戦役:1797年1月27日時点でのオーストリア軍左翼の強度と配置

 これによりピアーヴェ川周辺でバヤリッヒ将軍が指揮する兵力は、歩兵3,853人、騎兵1,298騎、合計5,151人となった。

 バヤリッヒは騎兵隊を分散させ、トレヴィーゾ近くの前哨基地とボスコ・ディ・モンテッロ(Bosco di montello)、左翼をカバーするためにオデルツォ(Oderzo)近く、右翼をカバーするためにサンタ・ルチア(Santa Lucia)にそれぞれ2個騎兵中隊を配置した。

 ロヴァディナ(Lovadina)近くのピアーヴェ川右岸の橋頭保に2個中隊と3門の大砲を配備し、左岸の残りの歩兵がそれらを支援した。

 コボロス将軍は6個大隊、2個中隊、半個騎兵中隊とともにフェネル(Fener)でピアーヴェ川を渡り、ヴィドール(Vidor)で野営した。