リヴォリ戦役 10:オーストリア主力軍の集結完了とナポレオンの始動
Battle of Rivoli 10

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

バヤリッヒ旅団による陽動の開始とオーストリア主力軍の集結

 ラウドン将軍は1797年1月8日~9日にかけて旅団をティオーネ(Tione)に集結させていた。

 そしてバヤリッヒ将軍は2個大隊、1個騎兵中隊、および大砲を伴ってヴィチェンツァ~ヴェローナ間の主要道路を前進し、アウグスティネッツ大佐に4個大隊を率いて山岳地帯を行進させ、9日中にヴィッラノーヴァに到着していた。

 1月10日、バヤリッヒ将軍はカルディエーロとヴァーゴを経由してサン・ジャコモに前哨部隊を押し進め、左翼はアルコレに向かって出発した。

 アウグスティネッツ大佐率いる右翼の内の3個大隊はアウグスティネッツ大佐が率いて困難な山岳地帯を進みサン・ヴィターレ(San Vitale)まで到達し、4個大隊の内1個大隊はサンタ・アナに向かっており、アディジェ川左岸にいるビカソヴィッチ旅団との必要な連絡を取り終えていた。

 夜10時、フランス騎兵の一団が突然現れてバヤリッヒ将軍の前衛隊に突撃し、サン・ジャコモ近くの道を進んだ。

 しかしフランス騎兵隊の指揮官が戦死したことにより撃退され、数人が死亡し捕らえられた。

 主力軍の各縦隊は、部分的に遅れている部隊はあるものの、1月10日中に集結をほぼ完了させ侵攻準備を整えた。

◎オーストリア主力軍各列(縦隊)の集結

 第1列はブレントーニコ、第2列はアーヴィオ、第3列はベッルーノ近郊、第6列はアラとボルゲットの近くにすでに集結しており、第5列は予定通りヴァルスガーナを通ってトレントに向かっていた。

 しかし第4列は未だロヴェレトとアラの間を移動していた。

 第6列の11個中隊はレッシーニ山脈を通してバヤリッヒ旅団と連絡を取り合い、バヤリッヒ旅団からの情報と偵察からの情報により、フランス軍はオーストリア軍の動向と真意を知らず、アディジェ川下流域への攻撃によって欺かれていることを確信した。

 この時アルヴィンチは、バルド山ではジュベール将軍がマドンナ・デッラ・コロナとフェラーラをわずか2000人の兵力で占領しており、師団の残りの部隊はカプリーノ渓谷とリヴォリ周辺に分かれているとの報告を受けていた。

プロベラによるアディジェ川渡河地点の選定

 1月10日、プロベラ将軍は本部をモンタニャーナに置き、前衛をサン・ゼノーネに置いた。

 会議の中でアンジャーリ(Angiari)が渡河地点として提案され、翌朝、アンジャーリが渡河に適した地点かどうか、他に渡河に適した地点は無いかを偵察することとなった。

 1月11日朝、プロベラは、提案されたアンジャーリの地点とレニャーゴから北のアディジェ川左岸沿いを偵察させた。

 正午時点で、プロベラはアンジャーリでの渡河をまだ命じていなかった。

◎オージュローとプロベラの睨み合い

 アンジャーリから南に1時間半の所に位置するレニャーゴにはオージュロー将軍率いる師団の一部がおり、北に5時間半の所に位置するロンコにはオージュロー師団の約3,000人の兵が配置されていた。

 そして渡河地点の候補地であるアンジャーリには200人の兵が配置され、アディジェ川右岸のすべての地点で強い防衛網を構築しており、所々に砲台を設置してこれらの部隊を支援していた。

 しかもオージュローはレニャーゴからわずか5時間しか離れていないエステへの迂回機動により、プロベラ師団の後部を遮断することもできた。

 そのためプロベラはアディジェ川を渡河するための好機を待つことにしたのである。

ナポレオンの始動

 1月10日、ボナパルトはボローニャにおり、8日に行われたべヴィラックアでの戦闘と9日に行われたレニャーゴ近くでのオージュロー師団前衛への攻撃の報告とオージュローの見解を受け取った。

 ボナパルトはすぐにオージュロー師団を強化するためにボローニャにいる4,000人の内2,000人(歩兵1,400人、騎兵600騎)をランヌ将軍に率いさせフェラーラを経由してロヴィゴ(Rovigo)に向かうよう命じた。

 ランヌ将軍は11日午前4時にボローニャを出発した。

 ボナパルト自身はオーストリア軍の本格的な侵攻が始まる危険を察知し、事態の把握を行い総指揮を執るためにヴェローナに向けて出発した。