リヴォリ戦役 35:フランス軍によるトレントの占領とブレンタ渓谷の占領
Rivoli Campaign 35
リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | リヴォリの戦い:19,000人~22,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門 ラ・ファヴォリータの戦い:不明 |
オーストリア | リヴォリの戦い:約28,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門 |
ラウドン将軍によるカッリアーノの放棄
1月29日午後、ラウドン将軍は会議を開いて現状を確認し、今後の方針を決定した。
カッリアーノはフランス軍によって脅かされており、山中にある修道院などの拠点までパンや食糧を運ぶことは不可能だった。
頻繁に雪が降るため屋外に長く留まることは難しく、建物の中に留まって監視と防衛を行わなければならなかった。
そのため会議では夜にカッリアーノを放棄し、ラヴィース(Lavis)とチェンブラ(Cembra)で防衛線を構築することを決定した。
退却はフランス軍側からの何らかの干渉があった時に開始された。
◎チロル軍のカッリアーノからの撤退
ブロダノヴィッチ大佐はティオン(Tione)とステニコ(Stenico)を離れ、ノーチェ(Noce)川右岸のスポルマッジョーレ(Spormaggiore)とロケッタ(Rochetta)の近くに移動した。
ビアンキ(Bianchi)大佐はモルヴェーノ(Molveno)とメッツォコロナ(Mezzocorona)に撤退した。
※メッツォコロナ(Mezzocorona)の旧ドイツ名はドイツシュメッツ(Deutschmetz)
フォルガーリア村に配置された4個中隊はヴィゴロ(Vigolo)経由で帰還することになっており、ビアンキ大佐の分遣隊とフォルガーリア村の4個中隊はアヴィーシオ川の後ろでラウドン将軍と合流する予定だった。
1月30日の朝までには既にこれらの移動の大部分が完了していた。
ジュベール師団によるトレントの占領
1797年1月30日、ラウドン将軍はペレティッヒ(Peretich)少佐にファイ(Fai)、ザンバーナ(Zambana)、メッツォコロナで右翼を指揮するよう命じ、左翼は4個中隊とその一部がアヴィーシオ渓谷でカバレゼ(Cavalese)を防衛し、ビアンキ大佐の分遣隊はチェンブラを占領した。
そしてその日、ジュベール師団の前衛がトレントに入った。
しかしトレントの占領はブレンタ渓谷を安全に利用するのに十分というわけではなかった。
そのためジュベールはマッセナにトレント占領の知らせを送り、さらなる前進の準備を行った。
さらにジュベールは、後方の安全と治安維持のためロヴェレトの司祭に、「民兵は武器を放棄し銃を所持した農民は厳罰に処す」と布告を出させた。
同日夜、ラウドン将軍はアルヴィンチに報告書を送りカッリアーノの放棄とラヴィースで防衛線を構築していることを知らせた。
報告書を受け取ったアルヴィンチはボルツァーノ(Bolzano)からラウドン将軍に返信し、カッリアーノからの退却とトレントの放棄を非難した。
アルヴィンチとしてはカッリアーノは守りやすく攻めにくい地形であり、数日防御が可能だと考えていたのだろう。
実際、アルコレ戦役時にフランス軍のヴォーボワ師団がカッリアーノの地点で優勢なオーストリア軍に対し背後に回り込まれるまで優位を保っていた。
ラウドン将軍のトレントの放棄に連動してミトロフスキー旅団の指揮を移譲されたシェアーズ(Scherz)大佐は6個大隊を率いてヴァルスガーナを放棄し、フェルトレに移動した。
ラウドン将軍はアルヴィンチに、会議での決定とはいえ撤退したことを謝罪し、ラヴィースを限界まで防衛することを誓った。
しかしラウドン将軍指揮下のチロル軍は数が少なく、ラヴィースの位置を防衛するのに十分ではなかった。
予備も形成できない場合、フランス軍の最初の攻撃で圧倒されることが予想された。
そのためアルヴィンチはチロル軍の指揮権をリプタイ将軍に移し、ホーエンツォレルン旅団をリプタイ将軍に与えた。
一方、1797年1月30日頃、ホーエンツォレルン将軍はプステリア峡谷側から、スポーク将軍はコボロス将軍とともに急いでピアーヴェ川方面に向かっている途中であり、オクスカイ、ゼッケンドルフ、ホーエンツォレルンの3個旅団はプステリア渓谷を進軍し続けていたがホーエンツォレルン旅団のみチロル軍と合流しリプタイ将軍の指揮下に入るよう命じられた。
チロル軍司令官の交替とサロルノへの後退
1月31日、リプタイ将軍がチロル軍の指揮を執るためにラヴィースに到着したとき、ジュベールはオーストリア軍の前哨基地を攻撃し、ラヴィースの前を流れるアヴィーシオ川付近まで押し戻したところだった。
リプタイ将軍はこの広い地域を少数の軍で防衛することは不可能だと考えていた。
そして、ジュベールはすでに重要地点であるチェンブラを占領するために分遣隊をチロル軍左翼に向けて派遣していた。
そのためリプタイはチロル軍をサロルノ(Salorno)に後退させ、セゴンツァーノ、チェンブラ、サン・ミケーレに先遣隊だけを残した。
◎サロルノへの後退と両軍の位置
メッツォコロナに到着したばかりのビアンキ大佐も、サロルノに急ぐよう命じられた。
一方、ウォルフ大佐の部隊は、可能な限りメッツォコロナに留まることになっていた。
ラウドン将軍は別の分遣隊と共にスポルマッジョーレ(Spormaggiore)に配置された。
1月31日夜11時、リプタイ将軍はサロルノの本部から、チロル軍の指揮を引き継いだこと、そして撤退していることを報告し、それに加えてチロル軍全体の兵士数はわずか4,000人ほどであり、山岳地帯で20時間防衛する必要があると伝えた。
チロル軍唯一の増援はブレゲンツから行進している8個中隊、1個騎兵中隊で構成される部隊であり、グラッフェン将軍が指揮し、31日中にランデック(Landeck)に到着した。
グラッフェン旅団は元々ピアーヴェ川方面に向かう予定だったが、リプタイと合流するよう命じられた。
午後、アルヴィンチはボルツァーノ(Bolzano)からブレッサノネ(Bressanone)経由でフリウーリへの行軍を続けた。
◎マッセナ師団によるブレンタ渓谷の占領
ロイス将軍は1月31日にフェルトレからベッルーノを経由しサンタ・クローチェ(Santa Croce)に向かった。
一方、前日にシェアーズ大佐率いるミトロフスキー旅団(マッセナはバヤリッヒ旅団だと思ってる)がヴァルスガーナから撤退してフェルトレに向かったことを知ったマッセナは、オーストリア軍が放棄したプリモラーノとコヴォロ砦を抵抗なく征服してボルゴ・ヴァルスガーナを占領し大きな小麦粉の倉庫を手に入れた。
そして師団前衛を指揮するデュマ将軍が歩兵500人、騎兵200騎を率いシェアーズ旅団を追ってフェルトレに進軍した。
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