リヴォリ戦役 04:マントヴァ要塞の惨状
Battle of Rivoli 04

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

12月末時点でのマントヴァ要塞の惨状とヴルムサーの対応

 1796年12月24日時点のマントヴァ要塞の状況は深刻だった。

 要塞の外ではフランス軍はサン・アントニオからモンタータの間に砲台を設置して砲撃準備を行っており、要塞の内では食糧や物資が不足しており、ヴルムサーは軍だけでなくマントヴァの住民のためにも軍馬を提供した。

 軍にはもう弾薬は無く、抵抗する力をほとんど失っていた。

 衣類や木材さえも無く、利用可能なすべての木材は、住民の竈、兵士の調理、および病院職員にのみ使用された。

 古い教会や廃屋も解体して木材を確保しようとしたが、食事用と病院に必要なもの以外は確保できず暖房用の木材はなかった。

 この時期のマントヴァは寒く湿気が多い気候であり、衣類や木材の不足はより状況を深刻にしていた。

 病院での死亡率が飛躍的に高まり、先月の死者は2,300人に上った。

 そのためヴルムサーはセボッテンドルフ将軍に対策委員会を設置させた。

 セボッテンドルフは食料や医薬品の不足を可能な限り改善するために様々な施策を行った。

 民間薬局に在庫がある限り無料で薬を服用できるように取り計らった。

 病人一人ひとりに、毎日1ポンドの馬肉と5オンスの米や穀粉または小麦粉が配給として割り当てられ、朝食にはコショウ入りサイコロパンスープが出された。

 ワインはすでになくなったため残っていたブランデーの一部が気付け薬として病人に与えられた。

 その後ヴルムサーはこれらの状況をアルヴィンチに伝えるために書簡を送った。

 12月26日、ヴルムサー元帥は家を捜索し住民が持っている食糧や木材などの物資を調査し、どの程度軍に使用できるかを正確に調べるよう委員会を設置し調査が開始された。

 軍の活動は日を追うごとに削減され、最低限の活動のみが残された。

マントヴァ要塞駐屯軍の強度とわずかな延命

 12月31日、ヴルムサーは物資を得るために出撃計画を立案した。

◎実行されなかったヴルムサーの出撃計画

リヴォリ戦役:1796年1月31日、実行されなかったヴルムサーの出撃計画

 1列目はチッタデッラ要塞から出撃し、サン・アントニオとモンタータを経由しゴーイトへ向かう。

 2列目はプラデッラ門から出撃しクルタトーネ(Curtatone)へ向かう。

 3列目はチェレセ門から出撃しミリアレットを経由しピエトレに向かう計画だった。

 しかし実行日時を決められていなかったこの計画は実行に移されることは無く、1797年1月1日、兵士達は宿舎で待機するよう命じられた。

 1797年1月1日時点でのマントヴァ要塞内の兵力は、ヴルムサー元帥麾下の陸軍:歩兵8,768人、馬1,566頭。

 カント・ディール大将麾下のマントヴァ要塞守備軍:歩兵9,725人、馬253頭であり、両軍を合計すると、歩兵18,493人、馬1,819頭だった。

 その他に輜重隊が628人、馬701頭で構成されていた。

 しかし18,493人の内、8,693人は病気などで戦うことができず、動員可能な兵力は9,800人だった。

 9月から12月までのマントヴァ要塞内での死者を累計すると8,897人に上っており、マントヴァ要塞駐屯軍はすでに出撃する力さえ失い、延命を続けるために要塞内で物資を探し出すことに終始した。

 フランス軍は警戒を強化し、マントヴァ要塞の周囲1時間半以内に位置する村々から家畜と食糧を持って住民を退去させていた。

 そのため、もしマントヴァ要塞から食糧調達のために出撃したとしても目的は果たせず、籠城を延長することはできなかっただろう。

 もしかしたらヴルムサーはこのことを察知したため出撃を取りやめたのかもしれない。

 1月2日、調査委員会の報告により1月17日分までの食糧を確保できたことが発表された。

 これらの食糧で22日まで過ごした場合、ごくわずかな命しか助けられないことも判明した。

 1月9日、アルヴィンチが敗北したという噂が要塞内に広まった。

 ヴルムサーはそれが事実だった場合のことを考え、より長く要塞を維持しようと再び家屋調査を行った。

 しかし、これらの成果はわずかであり、ほんの数日間の延命しかできないと予想された。