リヴォリ戦役 37:カール大公の出発とリヴォリ戦役の終わり
Rivoli Campaign 37
リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | リヴォリの戦い:19,000人~22,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門 ラ・ファヴォリータの戦い:不明 |
オーストリア | リヴォリの戦い:約28,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人 |
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人 ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門 |
ジュベール師団とマッセナ師団との間の連絡線の開通
1797年2月2日、ジュベール将軍は師団と共にラヴィースの前に進み、2つの地点でアヴィーシオ川を渡った。
ヴィアル将軍は第14半旅団に支援され、軽歩兵でセゴンツァーノ村を見下ろす高地を攻撃した。
オーストリアの先遣隊はセゴンツァーノとチェンブラを通過し、サン・ミケーレに撤退した。
チェンブラを占領したフランス軍の縦隊がサロルノ近くの陣地を取り囲み、カヴァレーゼ(Cavalese)とその先の山々を抜けてプステリア渓谷に入り、チロル軍の後方に位置するブレッサノネにたどり着いた。
リプタイ将軍は、レクツェン中佐に命じ1個大隊と2個中隊でフランス軍からチェンブラを再び奪還した。
フランス軍は素早い攻撃によってチェンブラからの後退を余儀なくされたが、セゴンツァーノは保持したままだった。
マッセナはすでにバッサーノからヴァルスガーナに部隊を派遣しており、マッセナ師団左翼がジュベール師団右翼と接触した。
そしてオージュローは前衛をトレヴィーゾに残しパドヴァへ後退した。
この時、アルヴィンチはフランス軍(オージュロー師団)の後退を不可解に思っていたと言われている。
◎1797年2月初旬時点での両軍の強度と配置
マッセナ師団は第18、第20半旅団と2門の大砲、2個騎兵中隊とデュマ中将指揮下の700人の前衛隊はプリモラーノ、チズモーン、カルパネを占領していた。
マッセナはボルゴ・ヴァルスガーナが基点となる相互偵察によってレーヴィコまで連絡線が伸びているジュベールと連絡を取り合わなければならなかったが連絡線は確立された。
メナード旅団とランポン旅団はバッサーノの宿営地で活動を再開し、オージュローはトレヴィーゾとカステルフランコに2個半旅団を配置していた。
そのためオーストリア軍と対峙しているフランス軍は、トレント周辺に左翼ジュベール師団、バッサーノとブレンタ渓谷に中央マッセナ師団、パドヴァ周辺に右翼オージュロー師団が配置されていた。
フランス軍は、マントヴァが陥落した後の2月4日にこれらの位置にいた。
マントヴァ要塞の占領
2月3日午前9時、マントヴァ要塞はフランス軍に引き渡され、ヴルムサー元帥とともに解放された700人の兵士は降伏してから3ヶ月間フランス軍に敵対しないことを約束してマントヴァを去り、残りの虜囚は3列に分割され第1列目は2月4日に、第2列目は2月5日に、第3列目は2月6日にレニャーゴ、パドヴァ、トレヴィーゾを経由して、フリウーリのゴリツィア(Gorizia)に向かって出発する予定とされた。
傷病者は回復後に同様にオーストリアに送られることになっていた。
マントヴァの住民については、彼らの権利と特権の維持、および財産と宗教の安全を保証されており、オーストリアの州に行きたい人は、出国の自由と財産の処分の自由を保証されていた。
マントヴァ要塞はフランス軍の後方拠点として利用され、ナポレオンは砲兵将校に砲弾と弾薬を担当させ、工兵に地図と防水シートの管理を担当させた。
2月4日、第1列目の兵士4,000人と馬800頭が、2月5日、第2列目の兵士4,000人、馬300頭、2月6日、第3列目の兵士4,500 人、馬300頭がマントヴァを出発した。
兵士達は顔や衣服にひどい飢えと物資の欠乏の痕跡を残していたと言われている。
第1列目は2月13日に、第2列目は14日に、第3列目は15日にピアーヴェにあるオーストリア軍の前哨基地に到着した。
その後、これらの部隊は本国に帰還し、国内の守備任務に使用された。
要塞内を調査した結果、要塞内の食糧はトウモロコシ300個、トウモロコシ粉175袋、硬い飼料が68個、そして塩しか残されておらず、これらは2月6日にフランス軍に接収された。
そしてカスティリオーネの戦い前に放棄された179門の大砲と包囲のための装備に加え、325門の大砲の材料や船上装備、60旈の旗が発見された。
その中の60旈の旗はオージュロー将軍がフランスに届けるよう命じられた。
オージュロー不在の間、オージュロー師団の指揮はギウ将軍に委ねられ、オージュロー師団はマッセナに従属した。
マントヴァ要塞が引き渡されたことにより、フランス軍は包囲のための兵力を前線に投入することができるようになった。
しかし、オーストリア軍への攻撃を開始するためには、さらなる増援を受け取り、教皇領を平定し、北イタリアのトランスパダーナ共和国とチスパダーナ共和国の内政に取り組まなければならなかったため、ボナパルトは6週間はオーストリア軍の監視を続けなければならないだろうと考えた。
そのため、ボナパルトはマッセナに、フリウーリに散らばったオーストリア軍の残党を監視するよう命じ、ヴィチェンツァでシャボー(Chabot)中将が第12と第64半旅団、2個騎兵中隊と大砲12門を持って合流した。
これによりマッセナ指揮下のの兵力は約25,000人(ギウ将軍率いるオージュロー師団含む)となった。
この時、シャボー将軍と同じくマントヴァを包囲していたダルマーニュ師団もマントヴァを離れレニャーゴに移動していた。
マントヴァ要塞の占領以降、フランス軍はヴェネツィア共和国内で公然と革命思想を広めるようになっていった。
※ヴェネツィアは1,000年以上「共和国」の政体を保って存続した国家であるが、最高意思決定機関である大評議会は貴族の世襲制であり、国家元首であるドージェは大評議会の中から選ばれるという政体だった。そのため貴族とそうでない者の間には差があり、高貴な身分を排除を目的とする革命を広める余地が十分あったのである。
カール大公の出発
1796年4月にフランスによる第一次イタリア遠征が開始されてからマントヴァ要塞陥落までの約10ヵ月間、ナポレオンはオーストリア軍に対しロディ、カスティリオーネ、バッサーノ、アルコレ、リヴォリの5つの戦役に勝利してその軍を破壊し、ボーリュー大将、ヴルムサー元帥、アルヴィンチ大将の3人の総司令官とその側近達の自信を失わせた。
しかし一方でフランスは主戦場と想定していたライン方面でカール大公軍に敗北を続けており、フランス国境まで追い込まれていた。
オーストリアの希望はもはや主戦場のライン方面で戦勝を続けるカール大公より他に無かった。
カール大公の後任は決まっていなかったが、オーストリア政府はイタリア方面におけるこの差し迫った危機に即時に対応しなければならなかったため長く議論することはできず、すぐにカール大公に対しライン方面を発ちイタリア方面に向かうよう命じた。
この時カール大公軍は、2月1日にユナング包囲戦(Siege of Hüningen)に勝利してライン河の対岸に橋頭保を手に入れ、翌日にユナング要塞の解体を行っていた。
◎1797年2月2日のユナング要塞の解体とカール大公の到着の様子
※Jean Jaques de Mechel画。カール大公軍は1796年11月27日から包囲していたユナングをおよそ2ヶ月間かけて陥落させた。
本国からの命を受けたカール大公はラトゥール(Maximilian Baillet von Latour)将軍に指揮権を引き継ぎ、2月3日にライン方面を離れユナングから約300㎞東に位置するチロル州の州都インスブルックへ旅立った。
この時、カール大公25歳、ナポレオン27歳であり、オーストリア帝国とフランス共和国はともに20代の若者にこの戦争の行く末を委ねたのである。
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