リヴォリ戦役 29:オーストリア軍のバッサーノ集結計画とフランス軍のバッサーノへの接近
Battle of Rivoli 29

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

アルヴィンチによるバッサーノ集結計画

◎1797年1月22日、オーストリア軍のバッサーノ集結計画

リヴォリ戦役:1797年1月22日時点でのオーストリア軍のバッサーノ集結計画

 1月21日時点で約10,000人を擁するオージュロー師団はパドヴァの前まで接近しており、約9,000人擁するマッセナ師団は続々とヴィチェンツァへ集結しつつあった。

 両師団がバッサーノへ向かう日は近いと思われた。

 そのためアルヴィンチはアスティコ渓谷(Val d'Astico)を通ってバッサーノに向かっているコボロス将軍にマロースティカ(Marostica)を経由してバッサーノに向かい、必要とあらばフランス軍を突破して道を切り開くよう命じた。

 恐らく、そのままアスティコ渓谷を下って行った場合、すぐにフランス軍に発見され対応されてしまう可能性が高いため、山岳地に入りマロースティカに出る道を選んだのだろう。

 ロイス将軍は10個大隊、4個騎兵中隊を擁し、ヴァッラルサ(Vallarsa)、レーヴィコ・テルメ(Levico Terme)、オスペダレッ(Ospedaletto)、チズモーン(Cismone)を経由し、1月28日にバッサーノに到着する予定だった。

 4個大隊を擁するオクスカイ将軍と4個大隊、6個中隊、2個騎兵中隊を擁するゼッケンドルフ(Seckendorff)将軍は、24日にロヴェレト、25日にトレントに部隊を集結させ、ロイス旅団の後に続いて行進しヴァルスガーナを通り1月29日にバッサーノに到着することを計画していた。

 ミトロフスキー将軍は22日時点で4個大隊、半個騎兵中隊でプリモラーノ、コヴォロ砦周辺へ集結中であり、遅くとも25日~26日にはその一部がバッサーノに到着していると考えられた。

 その内の1個大隊が左翼の後衛に向かって派遣され、1個中隊がボルゴ・ヴァルスガーナに配置されていた。

 コボロス率いるオーストリア軍左翼はバッサーノの前に位置し、旅団左翼をバヤリッヒ将軍が率いアンガラーノの左側でブレンタ川に接し、旅団右翼はコボロス将軍が自ら率いセッテ・コムニ(Sette comni)の山々にもたれかかるよう布陣し、フランス軍の攻撃に備える計画だった。

 コボロス率いるオーストリア軍左翼が退却を必要とした場合、ピアーヴェ川方面に退却し、フォンツァーゾ(Fonzaso)、フェルトレ(Feltre)、ベッルーノ(Belluno)の地点は何よりもまずカバーされなければならないと考えられた。

 しかし、予定された全軍がバッサーノに集結するためにはあと1週間は必要であり、ミトロフスキー旅団が数日後に到着予定であるもののその間コボロス旅団とバヤリッヒ旅団で対応しなければならなかった。

オージュロー師団のパドヴァ進出とマッセナ師団のバッサーノへの接近

◎オージュロー師団のパドヴァ進出とマッセナ師団のバッサーノへの接近

リヴォリ戦役:1797年1月22日、オージュロー師団のパドヴァ進出とマッセナ師団のバッサーノへの接近

 1月22日、オージュロー師団はパドヴァを占領してブレンタ川を渡り、カンポ・サン・ピエーロを経由してバッサーノに向かった。

 マッセナ師団はヴィチェンツァに入り、バッサーノへの攻撃命令が下るのを待った。

 その間、マッセナは増援を要求し、ボナパルトはそれに応じた。

 マッセナ師団の前衛はオーストリアの前哨部隊を押し戻し、リジエラ(Lisiera)とスカルダフェッロ(Scaldaferro)を経由しバッサーノの近くまで進出した。

オーストリア軍右翼の形成

 右翼ラウドン将軍は10個大隊、15個中隊、2個騎兵中隊、計7,428人を擁し、チロルに留まり民兵の防衛を支援するよう命じられた。

 ビカソヴィッチ将軍は2,852人(100騎未満の騎兵を含む)を指揮し、アディジェ川左岸側のセッラヴァッレに配置された。

 ドラー(Doller)大佐は1,400人(騎兵100騎を含む)を指揮し、ベッルーノとチッツォーラ(Chizzola)の間に配置された。

 ウォルフ大佐は992人とともにバルド山のサン・ヴァレンティーノ(San Valentino)、アーヴィオに配置された。

 ビアンキ(Bianchi)大佐は1,655人を指揮し、ナーゴ、リーヴァ、トルボレに配置された。

 ブロダノビッチ(Brodanovich)大佐は530人を指揮し、サン・アルベルト、ステーニコを防衛した。

 オーストリア軍の残りの部隊、つまり34個大隊、26個中隊、15個騎兵中隊、計23,717 人をブレンタの平原に集結させようとした。

 1月23日、そのためアルヴィンチはチロルからロイス旅団、オクスカイ旅団、ゼッケンドルフ旅団の合計9,343人の兵士を率いバッサーノへ向かう準備を始めた。