ガルダ湖畔の戦い 24:オーストリア軍の退却とマントヴァ要塞の再包囲 
Battle on the shores of Lake Garda 24

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:死傷者約2,000人、捕虜約1,000人

オーストリア軍の退却行

 1796年8月7日夜明け頃、ボナパルトはオーストリア軍の追跡を命じた。

 マッセナはコロナとブレンティーノを占領するためにリヴォリに移動した。

 ボーモント、ガルダンヌ、オージュローはミンチョ川右岸側からペスキエーラを通過しヴェローナに向かった。

 ソーレ師団を指揮するダルマーニュはオーストリア軍のトレントへの撤退を断ち切るためにリーヴァ(Riva)に向かって移動するよう命じられた。

 デスピノイはボナパルトから不評を買っていた。

 ソーレ師団の最初のサローへの攻撃の時に命令違反を犯しただけでなく、ボナパルトの指示に反してデスピノイの副官であるエルビンによるサッビア渓谷への攻撃を支持せず作戦実行の妨げとなったため、罰としてアレクサンドリアの要塞を指揮するために後方に送られた。

 マッセナ師団はカンパラで前線を構築しており、マッセナは自身の部隊とともに前進した。

 オーストリア軍はセーガに対してアディジェ川の反対側に数門の大砲を配置していた。

 マッセナ師団の砲兵隊は前進し、30分ほどの砲撃の後、オーストリア軍は後退した。

 約20人の勇敢な兵士が武器も持たずにアディジェ川を泳ぎ、川を渡り、大砲や馬を捕まえ、逃げ遅れたオーストリア兵を捕虜とした。

 バヤリックス旅団の極端な後衛は、数発の大砲でリヴォリから追い出され、プレアボッコに後退し、3門の大口径砲を放棄した。

 マッセナはリヴォリとセーガの対岸に部隊を形成し、オーストリア軍の手にあるキウーサ砦からの連絡を遮断するような形で大砲を配置した時、ヴェローナ方面からオーストリア軍の船団がアディジェ川を遡って来るのが見えた。

 マッセナ隷下の軽歩兵部隊は岩に隠れて待ち伏せした。

 しかし十分に近づく前に発砲してしまったため船団を取り逃した。

 師団の宿営のための準備を終えた頃、マッセナは本部をピオヴェッツァーノ(Piovezzano)に移した。

 バヤリックスはマドンナ・デッラ・コロナに、ミトロフスキーはインカナーレとクロアラ城(Croara)に、シュビルツ騎兵隊はアーヴィオ(Avio)とアラ(Ala)に部隊を配置した。

 ボナパルトはガルダンヌ率いるセリュリエ師団とともにヴェローナの前に到着したが、橋は上がり市門は閉ざされていた。

 ヴェローナには未だ数多くのオーストリア兵がいたが、すでに午後3時を過ぎていた。

 この時のオーストリア軍の位置は、ファンク(Funck)将軍はすでにバッサーノ(Bassano)に撤退し、セボッテンドルフとダヴィドウィッチはドルチェ(Dolce)、ペリ(Peri)、アラ(Ala)の方向に後退している途上であり、メサロス師団騎兵隊はヴィチェンツァに到達していたが、市内に多くの兵が連なっている状態だった。

◎両軍の位置関係と進路

 ボナパルトはヴェローナの市門を開けるためにヴェローナの責任者を呼び出した。

 ヴェローナの責任者はオーストリア軍が撤退する時間を稼ぐために、理由を付けて2時間後に開門することを伝えた。

 しかしボナパルトはドマルタンに砲撃させて門を破裂させ、市内への道を開かせた。

 ガルダンヌは市内に突入し、多くのオーストリア兵を捕虜としヴェローナを占領した。

 この間、セリュリエ師団のすぐ後ろを行軍していたオージュロー師団はヴェローナの横を通り過ぎ、ヴィチェンツァまでメサロスを追跡した。





マントヴァ要塞の再包囲

 1796年8月8日、ヴルムサーは本部をアラ(Ala)に移し、ダヴィドウィッチ師団にはアディジェ川左岸側の部隊を、ミトロフスキーには右岸側の部隊を指揮するよう命じた。

 ガルダンヌの後任となったフィオレラはヴェローナからマルミローロ(Marumirolo)に戻り、再びマントヴァ要塞包囲網の再構築を行った。

◎マントヴァ要塞の封鎖

 しかしフィオレラは病に倒れ、9日、セリュリエ師団の指揮をソーゲ(Sahuguet)将軍に引き渡した。

 指揮権を引き継いだソーゲだったが、最初のマントヴァ要塞の攻囲を解いて後退するときに大砲と砲車のほとんどを塹壕に放り投げて打ち捨てており、それらはマントヴァ駐屯軍に回収されていた。

 そのためマントヴァ要塞を攻囲することは不可能であり、「攻囲」ではなく「封鎖」を行わざるを得なかった。