ロディ戦役 10:ロンバルディアの支配体制の確立とミンチョ川での防衛態勢の構築 Lodi Campaign 10

ボルゲットの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約30,907人 約500人
オーストリア 約17,790人 583人(捕虜含む)

ロンバルディアの支配Dominate Lombardy

 1796年5月10日、ロディの戦いに勝利を収め、15日にミラノに入城したボナパルトは、今後の行動のためにロンバルディアの支配体制を確立する必要があった。

 軍事的にはマッセナに次の新たな作戦のための準備と未だ降伏していないミラノのスフォルツェスコ城の封鎖を命じ、ボナパルト自身はミラノで外交・政務を執り行った。

 モデナ公国に圧力をかけ、700万フランの戦費、250万フラン分の食料と弾薬、20枚の絵画を供出させる代わりに休戦協定を締結した。

 その他、ミラノ人に対して2,000万フランを、教会に対してはその他に銀器やお布施を徴収した。

 これらの徴収した資金は兵士の給与、衣料品の支払い、いくつかの店舗の設立、不足していた輸送手段の調達に使用された。

 この時、兵士達はフランス政府から長期間にわたって給与を貰っておらず、ある士官によれば、まるで金持ちになった気分だったそうである。

 ボナパルトはオーストリア党派を排除することによりロンバルディアの管理を再編成し、政治的、行政的支配を進めていった。

ボーリューによるミンチョ川での防衛態勢の構築Austrian Military Situation

 ロディの戦いに敗れたオーストリア軍は、フランス軍の追跡を振り切り何とかマントヴァ要塞に到着した。

 5月16日、ボーリューはマントヴァ要塞に約12,000人の兵士を分離し、残りの軍とともにロヴェルベッラ(Roverbella)に向かった。

 ロヴェルベッラはペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞の中間地点にある町である。

 強固なマントヴァ要塞には時間稼ぎができる最小限の兵力を配置し、もしマントヴァ要塞にフランス軍の主攻が来た場合、すぐに増援を派遣できる体制を整えておき、その他の渡河地点に残りの兵力を配置するのが多くの人が自然だと思う形だろう。

 しかしボーリュー視点ではマントヴァ要塞を失うわけにはいかず、マントヴァ要塞の広さを防衛するには多くの兵が必要だった。

 そのため約12,000人という大きな兵力をマントヴァに残したと考えられる。

 ボーリューはミンチョ川で防衛線を構築するつもりであり、ミンチョ川の両端はペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞に支配されていた。

 ペスキエーラ要塞は中立国であるヴェネツィア共和国が所有する要塞であり、オーストリアの所有するマントヴァ要塞には約12,000人の兵力を駐屯させているため、ロヴェルベッラでゴーイトへ部隊を分離しヴァレッジョ・スル・ミンチョへ向かうのである。

 そしてペスキエーラ要塞の使用許可を受け取ることができればフランス軍の機動によってはヴァレッジョ・スル・ミンチョからペスキエーラ要塞へ部隊を派遣する計画だった。

 ボーリューはペスキエーラ要塞でフランス軍が渡河する可能性を考え、ヴェネツィア共和国にペスキエーラ要塞の使用を要求していたが、返答は未だ来ていなかった。

 その後、ボーリューはオリオ川とミンチョ川の間にあるモンテキアーリ、メッツァーネ・ディ・カルヴィザーノ、カステルヌオーヴォ周辺まで騎兵隊を配置した。

 フランス軍を発見もしくは攻撃を受けた時に撤退し、どの地点をフランス軍が通過したかを把握するための偵察部隊である。

 ミンチョ川で防衛線を構築しているオーストリア軍にとっては未来の行動を決定する非常に重要な情報だった。