ロディ戦役 01:ポー河渡河計画Lodi Campaign 01

グアルダミーリオの戦い、フォンビオの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 グアルダミーリオ前哨戦:約500人
グアルダミーリオ:約10,500人~約11,500人
フォンビオ:10,500人~11,500人
合計約450人
オーストリア グアルダミーリオ前哨戦:約150人
グアルダミーリオ:約5,000人
フォンビオ:約5,000人
合計約500人~約600人

オーストリアへTo Austria

 1796年4月28日、サルディーニャ王国はケラスコの休戦協定により領土の多くを失い、同盟から脱落し中立国となった。

 ボナパルトはタンド峠周辺からマッカード少将とガルニエ少将の部隊を呼び寄せ、さらにアルプス方面軍からの増援を求めた。

 フランスのアルプス方面軍ケレルマン中将がアオスタを通過してイタリア方面軍を強化した時、オーストリア軍はその兵力差からポー河右岸側を防衛することが不可能となった。

 そのため総司令官ボーリュー大将率いるオーストリア軍はアレクサンドリアを放棄し、ヴァレンツァでポー河を渡河し、モンテ・ローザ(Monte Rosa)からヴェルチェリ(Vercelli)を経由しフラッシネート・ポー(Frassineto Po)周辺でポー河に流れ込むセージア川(Fiume Sesia)まで急速に後退した。

 セージア川とイタリア半島東のアドリア海に流れ込むポー河で防衛線を構築しフランス軍を迎え撃つ計画だった。

◎ボーリューの作戦

 オーストリア軍の兵力配置は、ヴァレンツァ周辺よりもパヴィア南の方が厚く守られており、ヴァレンツァとパヴィアの中間地点にボーリューがいる形である。

 ボーリューはフランス軍がヴァレンツァで渡河するという情報は陽動であることを察しており、パヴィア南で渡河する可能性の方が高いと考えていた公算が高い。

 なぜなら、フランス軍がヴァレンツァで渡河する可能性が高いと考えていた場合、ヴァレンツァ周辺に配置する兵力はもっと多いはずである。

 ただ、どこで渡河するつもりなのかは不明なため、どちらにも支援できるようににボーリューは中間地点に布陣したと考えられる。

 ボナパルトはオーストリア軍が撤退することを想定しており、モンドヴィの戦いの後、4月28日にラハープにアックイへ行軍するよう命じていた。

 目的はオーストリア軍の後退に追いつくためである。しかし、ラハープ師団はモンドヴィの戦いに参加していなかったため、モンドヴィから提供された食料にあり付けず飢えていた。

 そのため一部兵士が反乱を起こし、鎮圧のため数日動けなかった。

 ラハープが行軍できるようになったのは4月30日であり、すでにボーリューはセージア川以東に後退していた。

 しかしオーストリア軍はヴァレンツァで再びポー川を渡り、オヴィーリオに行き、アレクサンドリア、トルトナを攻撃した。この攻撃はアレクサンドリアとトルトナでは失敗した。

 5月1日、メニエル師団はニッツァ・モンフェラートに到着し、ジュベール旅団を残しサーレへ向かった。

 ジュベール旅団はニッツァ・モンフェラートでセリュリエ師団と合流する予定だった。

 ラハープはアックイからトルトナに移動するよう命じられた。

 5月2日、フランス軍が接近すると、オーストリア軍は再びヴァレンツァからポー川を渡り、橋を破壊した。

 ボーリューはアゴーニョ川の背後にあるオットビアーノに20個大隊、26個中隊で野営した。ロッセルミニ少将は8個大隊、6個中隊でパヴィア南西に位置するソンモを占領。ビカソヴィッチはポー河を挟んでヴァレンツァの対岸に位置するフラスカローロからセージア川沿いにある都市ヴェルチェリまでを4個大隊、4個中隊で前哨基地を形成した。

 ボーモント騎兵少将はポー河の対岸のどこにオーストリア軍の部隊が配置されているのかを探るため、ポー河沿いに偵察部隊を派遣し警戒させた。

 マッセナはボルミダ川とオルバ川の間に位置するカステッラーゾ・ボルミダを占領し、カステッラーゾで橋を架けるために必要なボートを見つけ、ボートを接収した。

 そして、マッセナは遅れはあったもののアレクサンドリアを占領した。

 フランス軍の進軍を止めることができる唯一の障害はポー河であり、川幅が広く水深も深いため通過には大きな困難を伴った。

 しかし、ポー河を渡ることができなければオーストリア軍を叩く機会を失ってしまうのである。

ナポレオンのポー河渡河作戦Napoleon's Strategy

 ポー河の渡河地点は3つの候補があった。

 ヴァレンツァ、パヴィア南、ピアチェンツァである。

 ヴァレンツァは最も近く、サルディーニャ王国からも渡河許可を得ていたが、オーストリア軍に固く守られており、渡河には多大な犠牲が出るものと予想された。

 パヴィア南は渡河ができればボーリューの後背を突ける位置だが、ロッセルミニ将軍に守られており、渡河は困難と考えられた。

 ピアチェンツァはオーストリア軍の守りは薄かったが、フランス軍に最も近いヴァレンツァよりもさらに約80㎞離れた地点にあり、川幅も広く水深も深い地点だった。

 ボナパルトはピアチェンツァを渡河地点と定め、作戦を立案していた。

 ヴァレンツァの渡河許可を休戦協定の条件に盛り込んだのは、ボーリューに渡河地点はヴァレンツァ周辺であると思い込ませるためのナポレオンの罠だった。

 セリュリエ師団はヴァレンツァを占領し、牽制攻撃を仕掛け続けてオーストリア軍の注意を引き付ける。

 マッセナ師団はサーレまで進出してヴァレンツァで渡河すると見せかけた後、7日にカステル・サン・ジョバンニへ向かう。

 オージュロー師団は、セリュリエ師団とマッセナ師団の後背にあるカステッラーゾ・ボルミダを経由しスクリビア川の河口付近にあるジェローラで渡河準備の偽装を行い野営することにより、ヴァレンツァで渡河すると見せかける。

 6日渡河準備の偽装を続け、オーストリア軍に悟られないようにヴォゲーラへ移動して野営。7日夜明けまでにカステル・サン・ジョバンニに到着する。

 その後、ダルマーニュの選抜部隊を支援する。そして後にポー河を渡河する。

 ダルマーニュ少将が指揮する選抜部隊は、7日未明にストラデッラを出発し、カステル・サン・ジョバンニからピアチェンツァまでの間からボートを渡して渡河の先陣を切る。

 ラハープ師団は、6日トルトナからヴォゲーラへ移動。7日夜明けまでにカレンダスコに到着する。

 その後、ダルマーニュの選抜部隊(約3,600人と騎兵部隊)の渡河を支援し、ポー河を渡河する。

 ポー河北岸に橋頭保を確立し、ピアチェンツァに一時的な橋を建設。フランス軍のポー河渡河を安定的なものとする。

 つまり、セリュリエ師団、マッセナ師団、オージュロー師団がヴァレンツァで渡河すると見せかけてラハープ師団、オージュロー師団、マッセナ師団、セリュリエ師団の順でそれぞれの目的地に向かい、ダルマーニュが指揮する選抜部隊がピアチェンツァでポー河を渡河して対岸に橋頭保を作り、その後をラハープ師団、オージュロー師団、マッセナ師団、セリュリエ師団がポー河を渡河して橋を架けるのである。

 これらの行動は6日夜から7日夜明けまでに行われ、渡河作戦決行日時は7日夜明けであった。