ガルダ湖畔の戦い 25:フランス軍の前進 
Battle on the shores of Lake Garda 25

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:死傷者約2,000人、捕虜約1,000人

マッセナ師団によるバルド山周辺地域の奪還

 カスティリオーネの戦い及びミンチョ川周辺での戦いに敗れたオーストリア軍だったが、1796年8月8日の終わり時点で再侵攻できるだけの兵力といくつかの重要地点を保有していた。

 この時点でのオーストリア軍の配置は、左翼メサロス師団がブレンタ(Brenta)渓谷に展開しており、オーストリア軍右翼カスダノウィッチ師団はイドロ湖周辺とガルダ湖の北端からアディジェ川右岸までに広がっていた。そしてその間に中央であるダヴィドウィッチ師団とセボッテンドルフ師団が配置され、バルド山にはバヤリックス旅団が5個大隊で防衛任務に当たっていた。

◎両軍の配置状況(1796年8月8日の終わり時点)

 バヤリックスはバルド山に3つある重要地点の内の1つであるマドンナ・デッラ・コロナを強固に防衛していた。(バルド山の3つの重要地点は、北からセルビオーロ峠、ボケッタ・ディ・カンピオーネ、マドンナ・デッラ・コロナである。)

 マドンナ・デッラ・コロナがオーストリア軍の手中にある限り、オーストリア軍は再侵攻を行いミンチョ川までたどり着くことができるだろうと考えられた。

 そのため8日、マッセナはピジョン将軍にコロナに歩兵800人、ライフル部隊6個を与え威力偵察に向かわせた。

 しかしピジョンはマッセナの命令に従って位置を確認するために数発の弾丸を交わしてリヴォリに戻った。ピジョン将軍は命令に忠実だったが、オーストリア軍に奇襲を実行する力が残っていないことに気付かなかった。

 マッセナはボナパルトからの攻撃命令が到着する前にコロナ攻略に向けての作戦を計画していた。

 散兵部隊を指揮するピジョン将軍はコロナの正面と右から接近するよう命じられた。

 士官が率いる11番軽歩兵大隊はオーストリア軍の注意を逸らすためにアディジェ川方面に陽動攻撃を行う。

 ヴィクトールはトッリ(Torri)にいる300人のオーストリア部隊を監視した後、コロナのオーストリア部隊を側面に誘導するために、バルド山を左に横切ってコロナに移動する。

 ヴィクトールがピジョンを支援できる位置に到着することを知ったときピジョンはコロナに対して攻撃を行う。

 ランポンはリヴォリの前のパッゾン(Pazzon)に向かって前進して右側を占領し、ピジョンを支援する。

◎マッセナによるコロナ奪還計画

 そして10日、遂にボナパルトから攻撃命令が到着した。

 マッセナは命令に従いブッソレンゴとキウーサ砦の間の地域に偵察部隊を送り、ボナパルトが消耗戦を望んでいなかったため麾下の将軍達に、ほぼ確実に成功する可能性のある場合にのみ攻撃を開始するよう命じた。

 午前9時頃、マッセナは11番軽歩兵大隊でインカナーレへの攻撃を開始した。

 頑強な抵抗の後、オーストリア部隊はインカナーレを放棄した。

 フランス軍はそこで捕虜80人、大砲2門を鹵獲し、インカナーレの防御効果を手に入れた。

 しかし、そこへアディジェ川左岸から砲撃が始まった。

 11番軽歩兵大隊は左岸のオーストリア部隊をキウーサ砦まで押し込み、大砲を奪った。

 これらの戦闘の後、マッセナはこの場を副官のチャブランに一任し、マッセナはコロナに向かった。

 チャブランはさらに前進しプレアボッコを占領した。

 コロナではピジョン将軍が攻撃を行いオーストリア軍を塹壕に避難させていたが、この時ヴィクトールはまだ到着していなかった。

 マッセナがピジョンに合流すると、散兵を集結して部隊を形成し、ピジョン将軍に武器を手に塹壕に対して前進するよう命じた。

 この大胆な行動はコロナのオーストリア部隊を恐れさせ、オーストリア部隊は頑強な塹壕を放棄して後退した。

◎コロナとプレアボッコの奪還

 マッセナは追撃を行ったが夜闇のため効果的な追撃ができず、コロナのオーストリア部隊はバルド山における重要地点の1つであるボケッタ・ディ・カンピオーネに到達ことができた。

 この日、マッセナ師団はバルド山にあるコロナとアディジェ川沿いにあるプレアボッコを再占領し、150人を捕虜とし6門の大砲を奪った。





オージュロー師団のレッシーニ山脈越え

 マッセナがバルド山周辺で戦闘を行っている頃、オージュローはヴェローナを出発しレッシーニ(Lessini)山脈を北上しており、少し前をオーストリアの歩兵がアディジェ川上流に向けて撤退していた。

 オージュローは師団を2つに分けてアラに進軍した。

 1つ目はポリチェッラ渓谷(Valpolisella)を通過しサンタ・アンナ(Sant'Anna)へ、2つ目はパンテナ峡谷(Valpantena)を通過しルーゴ(Lugo)への道を北上した。

 攻撃は10日夕方6時にフレダ谷周辺のオーストリア軍の前哨基地で始まった。

 ロッカ・ピア峠(Passo di Rocca Pia)に宿営していた2つの部隊を追い出し、セーガ峠(Passo Fittanze di Sega)の部隊は夜中に後退して行った。そしてサンタ・アンナ方面から進軍したオージュローの部隊はフレダ谷に入り、アラを脅かした。

 ルーゴ方面から進軍したオージュローの部隊は山々を移動し、ヴァッラルサ(Vallarsa)やテッラニョーロ(Teragnolo)の谷を脅かし、ロヴェレトやトレントへの道を手に入れた。

◎レッシーニ山脈への追撃

 ヴルムサーは左翼を補強するために、夕方にフレダ谷付近に3個歩兵大隊を配置し、ロンキ(Ronchi)渓谷方面に別の3個大隊を配置した。

 ダヴィドウィッチはドルチェ、ペリ(Peri)、アラの間で部隊を分離してアラに後退したが、12日の朝にキウーサ砦、ドルチェ、ペリの部隊をアラに集結させた。



ソーレ師団の侵攻とロイス旅団の反撃

 病気が回復し師団の指揮を再開したソーレはギウ旅団とマッセナによって分離されたサンティレール指揮下の大隊とともに、ロイス将軍が率いるカスダノウィッチ師団の後衛部隊に対して行軍の準備をしていた。

 ロイス旅団の騎兵隊はラーヴィス(Lavis)周辺に散らばっており、ロッカ・ダンフォを120人の兵が守っていた。

 バゴリーノ(Bagolino)で460人の兵が右翼を形成し、レードロ(Ledro)渓谷で約1,000人の兵が左翼を形成していた。

 そしてピエーヴェ・ディ・ボーノ(Pieve di Bono)には200人の部隊が、ポンテ・カッファーロ(Ponte Caffaro)には900人の予備軍が配置されていた。

 1796年8月11日夜、サンティレールがロイス旅団を偵察している間、ソーレはサッビオに行き、12日にロッカ・ダンフォに行った。

 フランス軍がカッファーロ川にまで到達したため、ロイス旅団右翼は退路を遮断される前にバゴリーノを放棄した。

◎ソーレ師団の前進

 その後、ロイスはストロに後退した。

 そしてロイスは13日にトレントに向かって退却し、14日の朝にトレントに到着した。直後にバゴリーノの部隊がロイスの側に到着した。

 ソーレはロイスを追跡すべくピエーヴェ・ディ・ボーノの山々を進んだ。

 ロイスは山岳地帯でソーレ師団に追撃されながらの困難な退却戦で約1,100人が捕らえられ、数門の大砲を失った。

 ロイスは前哨基地をヴェッツァーノ(Vezzano)に置き、アディジェ川に流れ込むヴェーラ(Vela)渓谷の背後に本体を置いた。

 バルド山方面、レッシーニ山脈方面、そしてイドロ湖方面での敗北によりヴルムサーはチロルとの国境にあるアディジェ川上流の渓谷にまで撤退することを計画していた。そしてすでにロヴェレトとトレントに後退するよう命令を送っていた。

 ロイス旅団がトレントに撤退しサルケを奪われたことによりリーヴァのカスダノウィッチ師団は重要な退路の1つを失い、さらにセボッテンドルフ師団及びダヴィドウィッチ師団の退路も脅かされていた。

 そのためヴルムサーはチロル方面への全軍撤退を計画したと考えられる。

 しかし、ロイス将軍による反攻作戦計画を知ったヴルムサーは後退命令を停止させた。

 そしてシュビルツ将軍に命じブレンタ、ブレントーニ渓谷、ロヴェレトを占領していた5個歩兵大隊、4個騎兵大隊を即座にトレントに集結させ、ロイス旅団の支援を行うよう命じた。

 ロイス将軍による反攻作戦が開始され、ロイスは自ら前線であるサルカ(Sarca)川のほとりに身を置いて指揮を執り、サルケ(Sarche)を占領した。

◎ロイスの反撃

 サルケは切り立ったサルカ渓谷の出入り口にあり、地理的にヴェッツァーノよりも防衛しやすい地点だった。

 このロイスの反攻作戦の成功は、ロイス旅団に優位な位置を占領させ、オーストリア軍全軍のさらなる後退を防いだのである。

 その後ヴルムサーはカスダノウィッチ師団をトレントに後退させて再編成を行った。そしてカスダノウィッチ師団の一部を分離し、セボッテンドルフ師団とダヴィドウィッチ師団を強化した。