ガルダ湖畔の戦い 08
Battle on the shores of Lake Garda 08
ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
---|
フランス共和国 | ロナート:約20,000人 カスティリオーネ:約30,000人 |
ロナート:約2,000人 カスティリオーネ:約1,300人 |
オーストリア | ロナート:約15,000人 カスティリオーネ:約25,000人 |
ロナート:約5,000人 カスティリオーネ:約3,000人 |
フランス軍の立て直しと撤退の決断
1796年7月29日午前から午後にかけての前線での戦闘でフランス軍はコロナ、ブレンティーノ、リヴォリ、サローで撤退を余儀なくされていた。
29日夕方、未だコロナ以外の地域の状況について報告を受けていないボナパルトはモンテキアーリでベルティエの到着を待ち、半旅団とともにカステルヌオーヴォ・デル・ガルダに向かった。この時、ボナパルトは態勢を立て直しオーストリア軍に対抗できると信じていた。
午前から午後にかけてペスキエーラでガルダ湖東側の状況把握と指揮を執り、午後からモンテキアーリでガルダ湖西側の指揮を執り、夜に再びガルダ湖東側のカステルヌォーヴォに赴いたのである。
この日、ボナパルトは馬で約60㎞を走破した。
ボナパルトは続けてカステルヌォーヴォでロベルト少将にゼーヴィオからビラフランカに移動するよう命じ、キルメイン騎兵隊と統合した。
ボナパルトはこのオーストリア軍との戦闘について新たな報告を受け、オーストリア軍の本格的な侵攻が始まったことを確信した。
ようやくコロナだけではなくブレンティーノ、サローがオーストリア軍の手に落ちたことを知ったのである。
ボナパルトは即座にランポンをヴェローナから撤退させ、マッセナにランポンとセルヴォニをカステルヌォーヴォで指揮するよう命じた。
一方、マントヴァ要塞ではフランス軍による一斉砲撃が始まった。
苛烈な砲撃に耐えられなくなったマントヴァ要塞防衛司令官カント・ディールはミリアレットの塹壕で覆われたポンパナッツァ砦に一部狙撃兵を残し部隊を引かせていた。
そしてボナパルトはセリュリエに攻囲の手を緩めないままポー河を渡りサン・ベネディットへの撤退の準備をするように指示をした。
オーストリア軍の本格的な侵攻を前にして前線を維持して抵抗しつつポー河の向こうに撤退し、イタリア最大河川であるポー河を自然の障壁として防衛線を構築するつもりだったのである。
ガルダ湖東側でのオーストリア軍による侵攻状況
今のところ戦いとは無縁なオーストリア軍メサロス師団は29日の夜にモンテベロを占領した。
7月30日、メサロスは前哨基地をロニゴ(Lonigo)、トッリ・ディ・コンフィーネ(Torri di Confine)、エステ(Este)に置き、偵察部隊をヴェローナ、レニャーゴ、ロビゴ(Rovigo)に派遣した。
◎メサロス師団の動向
30日、ダヴィドウィッチ師団隷下のシュピーゲル旅団はルーゴから進軍し、ランポンがヴェローナから撤退した後にヴェローナに入った。
シュピーゲル旅団がヴェローナに入った時、ランポン旅団の最後の部隊がまだヴェローナにいた。最後の部隊はその場に留まりシュピーゲルの前衛部隊と何度か銃撃を交わしたが、オーストリアの別動隊の攻撃によりビラフランカへ撤退した。
◎シュピーゲル旅団によるヴェローナの占領
ダヴィドウィッチはセーガとカンパラを経由してサンドラへ進軍し、そこでメラスと合流するつもりだった。
ダヴィドウィッチ師団の前衛部隊はカンパラとピオヴェッツァーノ(Piovezzano)でマッセナが配置した部隊と衝突した。
ダヴィドウィッチは連続した2回の攻撃を行ったが撃退された。
そこでダヴィドウィッチは、数的優位を生かしてほぼすべての部隊を投入し戦線を拡大し攻撃を厚くした。
戦線が拡大された結果、数的劣勢なフランス軍右翼はダヴィドウィッチ師団の攻撃を支えきれなかった。そのため右翼は散り散りになり山の方に避難した。
カンパラはダヴィドウィッチに奪われた。
マッセナは兵力を集中させるためにジュベール旅団とポール周辺のドマルタンの部隊を合流させ、砲兵をカステルヌォーヴォへ後退させた。
砲兵をカステルヌォーヴォに後退させる命令を出した時点で、マッセナはガルダ湖東側での防衛を諦め撤退戦への移行を始めた。
一方、メラス麾下のセボッテンドルフ中将はバヤリックス旅団とともにペスキエーラへ向けて行軍していた。
そしてカヴァイオーンで(Cavaion)でヴィクトール旅団と衝突し、ヴィクトール旅団をカルマジーノ(Calmasino)へ後退させた。
◎ガルダ湖東側での戦闘
サマー旅団の一部によって補強されたセボッテンドルフは向きを変え、ガルダ湖の東岸に向かいフランス軍の左翼を脅かした。
しかしヴィクトールはカルマジーノを強固に防衛し、翌朝夜が明けるまでカルマジーノを保持し続けた。