ガルダ湖畔の戦い 13:マントヴァ要塞への進軍
Battle on the shores of Lake Garda 13
ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ロナート:約20,000人 カスティリオーネ:約30,000人 |
ロナート:約2,000人 カスティリオーネ:約1,300人 |
オーストリア | ロナート:約15,000人 カスティリオーネ:約25,000人 |
ロナート:約5,000人 カスティリオーネ:約3,000人 |
ヴルムサーの決断
1796年7月31日早朝、メラスはカルマジーノからコラ(Cola)に進軍し、ダヴィドウィッチ師団はカンパラ、サンドラ、カステルヌォーヴォを占領した。
正午頃、メラス麾下のバヤリックス旅団はペスキエーラへ進み、塹壕を掘りペスキエーラ要塞の東側を包囲した。そしてピジョン旅団隷下のペスキエーラ守備隊を率いるギョーム将軍に対して降伏勧告を行った。
ギョーム将軍は降伏勧告に対し大砲の砲火によって応え、両軍攻撃の応酬を行った。
そしてヴルムサーはパストレンゴ(Pastrengo)にある本部をブッソレンゴ(Bussolengo)に移すよう命じた。
右翼のカスダノウィッチからはまだ連絡は無かったが、行軍中、フランス軍とカスダノウィッチ師団がブレシア平原で戦っているのが見えた。
そのため、ヴルムサーはカステルヌォーヴォを経由しヴァレッジョまで急いで進軍してミンチョ川を渡河し、マッセナ師団の背後を脅かしカスダノウィッチ師団と共闘する決断をした。
そしてヴェローナのシュピーゲル旅団とブッソレンゴ周辺にいるミトロフスキー旅団、ピットーニ旅団をビラフランカへ向かわせた。
◎ガルダ湖南端に達した時点でのヴルムサーの計画
ヴルムサーはマントヴァ要塞の状況を把握するために、ヴェローナにいるシュピーゲル旅団とビラフランカで合流する予定だったミトロフスキー旅団、ピットーニ旅団に対しマントヴァ要塞に偵察部隊を送るよう指示を出した。
マントヴァに関しては、要塞司令官カント・ディールにまもなくマントヴァ要塞に到着することを発信した。
31日午後4時頃、カステルヌォーヴォを出発しヴァレッジョに向かってダヴィドウィッチ師団の残りの部隊と進軍を開始した。
ボルゲットを占領していたヴァレッテはマッセナの命でボルゲットを撤収し、騎兵隊のみを残してカスティリオーネに退却した。
ボルゲットに残ったフランス騎兵隊はオーストリアの騎兵隊に追われた。
ヴルムサーはヴァレッジョへの行軍中、偵察部隊からの報告を受けた。
コロナやリヴォリで戦ったフランス軍はペスキエーラへ撤退していき、ボルゲットに駐留していたフランス軍もブレシア方向へ退却して行ったことから、フランス全軍はブレシアに向かって退却しているのではないかとヴルムサーは考えた。
しかしヴァレッジョに到着してからしばらくしてマントヴァ要塞へ送った偵察部隊が到着するとその認識は一変した。
マントヴァ要塞の包囲は継続して行われており、フランス軍はオーストリア軍がマッセナ師団と戦闘を行うのをロヴェルベッラ周辺で待っているとの報告だった。
ヴルムサー視点で考えると、ミンチョ川の背後にいるマッセナ師団をカスダノウィッチ師団とともに攻撃した場合、ヴルムサー本体の背後からロヴェルベッラ周辺に駐留しているフランス軍が襲い掛かり、最悪の状況を考えると敗北もあり得る。
◎ヴルムサーの懸念
そのため、ヴルムサーはまずロヴェルベッラ周辺のフランス軍を打ち砕き、マントヴァ要塞の救援に向かうことを決断した。
ヴルムサーはロヴェルベッラ周辺のフランス軍を打ち砕くべく、メサロス師団にレニャーゴでアディジェ川を渡り、ノガラ(Nogara)を経由しマントヴァ要塞に全力で移動するよう命令を送った。
7月31日の夜の間に他の報告が到着し、フランス軍はマントヴァ要塞を包囲したままであり、ロヴェルベッラ周辺に集結していることはほぼ確実な状況となった。
これらの報告もヴルムサーがマントヴァ要塞の救援に向かうことを強く決断させるための一因となった。