ガルダ湖畔の戦い 01:戦いの前
Battle on the shores of Lake Garda 01

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:約3,000人

イタリア方面軍を取り巻く状況

 1796年7月中旬、ボナパルトはヴォーボワ旅団をトスカーナ州のリヴォルノに残し、教皇領への遠征から帰還するとマントヴァ要塞の本格的な攻囲に取り掛かった。

 この時点でイタリアはマントヴァ要塞を除いて平穏に見えた。

 しかしフランスは水面下でフランス軍の失敗を望んでいる国々に包囲されていた。

 ナポリ王国はフランス軍と休戦協定を締結した(ブレシアの休戦)が、フランス軍に対して宣戦布告するための絶好の機会を探るための休戦であり、そのため現地の状況報告を行う部隊をフランス軍に派遣していた。

 トスカーナ大公国はフランスと平和条約を結んでいるにも関わらずリヴォルノにフランス軍が駐留し、その中立性を侵されていた。フランス軍をトスカーナ大公国から追い出すために、オーストリア軍が復活しフランス軍を駆逐することを望んでいた。

 パルマ公国とモデナ公国はフランス軍に占領されており、オーストリア軍によって解放されることを待ち望んでいた。

 ローマはフランス軍に獲られた領地を取り戻すことを望んでいた。

 サルデーニャ王国は敗戦の重圧に苦しんでおり、積極的にフランス軍に対抗する意思は無かったが、状況によりフランス軍に矛を向けるだろうと考えられた。

 ヴェネツィア共和国はオーストリア軍の動向をフランス軍に知らせる等、どちらかと言えば協力的であったがそれは表面的であり、いつフランス軍に敵対するかは不明であった。ヴェネツィア共和国の諸都市はフランス軍の略奪に悩まされており、住民感情は悪化の一途を辿っていた。表面的には平穏に見えるが水面下では噴火寸前の状態だった。

 ジェノヴァ共和国は以前にトルトナへの補給路を住民を蜂起させて遮断する策謀を行っていたことから、フランス軍の快進撃が止まりオーストリアと拮抗することを望んでいたと推測できる。

 そのためナポレオン・ボナパルト将軍率いるイタリア方面軍が一度でも窮地に立たされた場合、イタリアの国々は一斉に蜂起しフランス軍の退路を遮断するだろうと考えられた。



フランス軍の防衛状況

 ヴルムサーは7月1日にトレントに到着し、13日にロヴェレトへ移動した後の最初の接触であるカンピオーネでの戦い以降、日に日に増しているヴルムサーの脅威の対策として、ボナパルトはリヴォリとセーガ(Sega)の間に橋を架けるよう命じた。アディジェ川左岸側への通行をスムーズにすることにより、左岸側への部隊の展開を容易にし、リヴォリ方面とヴェローナ方面の相互の防衛を強化するつもりだったのである。

 マッセナはシャセループ工兵司令官とソンギス(Songis)大佐を伴って、この作戦の最も有利な点の把握に向かった。

 アディジェ川左岸の断崖のような強固な防壁を右岸で構築することが不可能だったため、マッセナはブッソレンゴ(Bussolengo)とセーガの間にあるポール(Pol)に橋を架けることにした。

 そして工兵大隊長アンドレオシー(Andreossy)をヴェローナに送りボートを取りに行かせ、ドルチェ(Dolce)で旧ボーリュー軍が撤退時に使用し放棄したいくつかのボートを送り出すのを待っている間、マッセナはナポリ連隊の通過ために、ポールに2つの道を設置した。

 ナポリ王国と最近締結された協定以降、ヴェネツィア共和国内で駐屯地を取得できるようになり、フランス軍はペスキエーラやヴェローナ、レニャーゴ等の他、様々な場所に部隊を配置可能となった。

 マッセナ師団はヴェローナにランポン旅団。ブッソレンゴ、パストレンゴ、リヴォリ、セーガにヴィクトール旅団。トッリ、モンターニャ、プレアボッコにヴァレッテ旅団。ジュベールはヴァレッテとともにコロナにいた。ブレシア、サロー、モンテ・チンゴリ、トルミニ、ガヴァルドにソーレ師団。デスピノイはダヴィン旅団とともにキエーゼ橋を見守っており、ブレシア、ペスキエーラに部隊を配置した。

 教皇領への遠征時、レニャーゴの留守を預かっていたデスピノイ麾下のロベルト旅団はゼーヴィオ(Zevio)に宿営した。

 ガルダ湖のフランス艦隊はカステレット、パイ、トッリ、ペスキエーラ、サローを根拠地としており、ガルダ湖の南側の7割ほどを勢力下に置いていた。

 キルメイン騎兵隊はヴェローナの南東に位置するヴァレッセ(Vallese)に到着し、セリュリエ師団はマントヴァ要塞を攻囲していた。

 その他、猟兵隊をカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレに配置していた。

 教皇領への遠征から戻ったオージュロー師団に関しては、20日以降アディジェ川下流に集結し、バディーア・ポレージネ、レニャーゴ要塞、ロンコ・アッラディジェ、ロヴェルキアーラに宿営していた。



◎フランス軍の防衛状況

 マッセナ師団が防備を固めている間、オーストリア軍の攻撃計画の噂は前哨基地の報告と一致し、より一貫性を帯びた。

 マッセナはサローを大隊で補強し、オーストリア軍が重要地点であるヴェローナに彼らの力を振り向けると考え、そこで指揮を執っていたランポン少将に指示を与えた。

 ヴェローナにいるランポン少将はオーストリア軍の接近についてアディジェ川右岸にいるデスピノイ師団約8,000人とセーガでポール橋の建設作業を見ていたヴィクトール旅団に警告した。